苦しいです
生きる事も死ぬ事も出来ずにいて屈辱で苦しいです。
たった今自殺しようとしていました。過去に一度ありますが、未遂で終わったためその事もあり怖くてなかなか出来ずにいました。死ぬ事が自分の使命だと言い聞かせやるつもりでいたのにいざとなると、怖くて不安で。かと言って生きる事も出来ずにいます。
何度も自分を変え自分なりの努力はしました。ですが根本的な家庭環境の悪さは変わらず、1番の元凶である親から離れられずに今まで耐えて来ました。
去年辺りから鬱病だとされるのも悪化し、自分自身心も体も蝕まれ考え方が極端に変わり自問自答の日々で耐え過ごして来ました。
人間自体が嫌いになり、世の中お金が全てで自分中心で平気で傷つけるような人間だけがいい思いをして生きている…そんな人間ばかりだと思うようになりました。
だから生きたくないのです。病院に行っても良くならず、結局は人間だからと…人間のせいでこうなってしまい治るのも生きるのも出来ないのだと。
でも準備までしても死ぬ事も出来ない…そんな自分に嫌気がさすばかりで情けないです。
そんな時にここを見つけ質問をしてみました。上手く言葉もまとめられず、ざっと要点を長々と書きすいません。
ですが自分一人で抱えきれず苦しいです。周りには理解してくれる人も話を聞いてくれる人すらおらず自分一人だけです。今までずっと一人で抱え耐えて我慢してきました。
ご回答よろしくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
本願-共に生きたいー
リック様はじめまして、ご相談拝見しました。
「いざとなると、怖くて不安で。かと言って生きる事も出来ずにいます。」
その気持ちが本願(ほんがん-本当の願いー)です。いのちが生きたいと叫んでいるのです。現に生きる事もできずにと言いながら生きています。自分の思いを超えて体が、もっと言うならいのちが生きたいと叫んでいるのです。
おっしゃる通り人間にはとても汚い面があります。
「世の中お金が全てで自分中心で平気で傷つけるような人間だけがいい思いをして生きている」
そうとしか思えないような現実が蔓延していることも事実でしょう。仏教では人間のそういうあり方を地獄・餓鬼・畜生と表現します。
怒り、貪りの心のままに争い、恥ずかしいと自らを省みることもなく、真実から遠ざかっている人間の姿です。
でも本当は心の奥底に願いがあるのです。本願です。そしてその願いは私だけで起こしたものでなく仏様からも同じように願われているのです。
「どんな環境でも自分に満足したい。」
「どんな人とでもつながってあたたかい関係を築きたい。」
本当はどこかでそう考えていませんか?リック様のことをわかって欲しいと思いませんか。
嫌いな人間とも本当はわかりあえたらいいのにと思いませんか?
私は思います。リック様のことも知りたいです。わかりたいです。
でもね、きっと本当にはわからないです。わたしはリック様のことを全てはわかってあげられない。
だから仏様に教えてもらうんです。人間対人間の関係には限界があります。どちらかを立てるとどちらかが引っ込むのが人間です。仲良くしたくてもどうしてもぶつかっちゃうんです。
だからともに仏様に真向かう。仏様の教えを聞く。そういう方向で皆同じ方向をむいている仲間なんだとつながっていけると思うのです。
同じいのちを生きる人間なんだという世界に目覚めていけると思うのです。
地獄・餓鬼・畜生を超えて本当の願いに目覚めた人間になりませんか?
一緒にこの世界で生きていきましょう。
追記
お返事ありがとうございます。ここでは気持ちを隠さず思いのままに語っていただいて大丈夫です。弱いあなた、人を嫌うあなたが良い人間、強い人間になって救われるのではありません。そのままのあなたが救われる道が仏道です。だからこそみんな同じだと認め合う世界です。またお待ちしてます。
人は、弱虫なところもあります
拝見しました。
そうですね。家庭や友人関係など、僅か20年ほどの人生の大半が苦しいだけであったと仰るのですね。死んでしまいたいが、死ぬのが怖くて、日々生き長らえているだけだと。
「どう生きるか」に迷いながら、多感な思春期を過ごし、二十歳を迎えられた貴方は、もはや活路を見出そうと、足掻くことさえ放棄してしまった。全ては人間のせいだと。
心を心電図に譬えるなら、「プーッ・・」とフラットな波形になってしまった状態でしょうか。
でも、貴方は今一度、確かな“鼓動”を示してくれましたね。私たちhasunohaに“SOS”を発信してくれた。
死を眼前にして、もう一度、藻掻いてくれている。
ならば、一度死んだつもりで、ジタバタしてごらん。
自死によって救われることは決してありません。後に残るのは、ご自分の罪障と、周囲の人間が一生背負わなければならない苦しみだけです。貴方が生きている今、ジタバタしながら道を求めるのです。死んでしまってからでは、どうにもならない。
しかし、『弱虫は、幸福をさえおそれるものです。綿で怪我をするんです。幸福に傷つけられる事もあるんです…』と太宰治が綴った通り、人間とは弱いもの。必死に生きて、仮に幸せになったとしても、そこでまた不安になったり怖くなったり、止めどない思考を繰り返すのです。
そして、また生きる、また生きようとジタバタしながら歩き始めるんです。
リックさま
ご返信、ありがとうございます。
どうか生きて下さい。いっぱいいっぱいになったら、どうぞhasunohaを訪れて下さい。
貴方の歩幅で、心を自由にして進んで欲しい...そう思っています。
質問者からのお礼
回答を下さった方々、お言葉ありがとうございます。
・吉武様
頂いたお言葉通り、どこかで自分に満足のいく自分でいて暖かい関係を夢に見ていたのかと思います。人間が嫌いなはずなのに悪いニュースや傷つけられている人を知ると怒りが沸き、この世の中悪自体がなくなり全ての人が幸せで毎日を笑顔で過ごせるような世界になってほしいと感じている自分もいます。本願という奥底の気持ちの意味も受け止め何故か涙が溢れました。これから自分がどうなるかまだ分かりませんが、もう少し死なずに過ごしこれ以上心が黒くならないようにしたいです。
また質問すると思いますがお話聞いて頂けたら有難いです。
・桑木様
まさにその通りです。私は本当に弱く強くなりたいと理想が高くなるくらいに弱いのが嫌でした。貴重な1番楽しいはずである思春期はただただ耐えるだけの苦痛な日々で逃げ場所がどこにもなく、今の自分を作り上げたような生活でした。そして書かれている言葉通りに、幸せになったとしても不安で失うのが怖くなったりするのが私だと思います。たまたま見かけた場所でしたが、質問をしてみて良かったです。生きる事も死ぬ事も難しく苦しいものだと痛感しました。
追記
ありがとうございます。そのお言葉を聞き少し重荷が取れました。またありのままの自分を受け入れていけるようになって、そのままの自分で出来る事が見つければと思います。
追記
遅くなりましたがありがとうございます。まだまだ自問自答が多くて見出せていないので、また訪れて質問させて頂きたいと思います。何にも縛られずに自由に歩いていけたらと思いました。