幸せは椅子取りゲーム?実は椅子の数に限りはない

世俗的な幸せは、確かに椅子取りゲームかもしれません。

しかし、無常であり、幻、砂上の楼閣のようなものです。
いずれ脆くも崩れ去るような砂の塔を作っているような感じです・・

そういえば、「砂の塔」というドラマと歌も最近にあったようですね。

まあ、世間で言っているところの幸せなど、真なる幸せではないと仏教では考えます。

もちろん、世間的な幸せになるためにも仏教は大いに資するものにもなりますが、そんないずれ崩れ去るような椅子に何も自ら好んで座る必要はありません。
むしろ、譲ってあげるぐらいの気持ちも必要です。

それよりも、悟り・涅槃という究極の幸せの椅子を狙っていきたいものであります。

また、その数に限りもありません。
なぜなら、その椅子は、自らで作るのですから。
世間の幸せの椅子もそうです。
自分で作り、自分で座ればよいのです。

幸せかどうかは他によって決まる、決めるものではなく、自らで決めていくようなもの。
良い結果へと向けては、自らによる良い因縁(原因と条件)の努力を。

引用元の質問: しあわせは椅子取りゲームな気がします。
みんな敵に見えてしまいます。
頑張らないとイスには座れません。
私はしあわせになりたいです。
回答僧:
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