しあわせは椅子取りゲームな気がします。
こんにちは。
しあわせって椅子取りゲームな気がします。
なんとなく違うよっていうのはわかります。
でも、
そうはどうしても思えません。
例えば、コンテストで優勝したい。
と出場者みんなものすごーーく、
思っていても
優勝できるイスは1人だけ。
なんだってそうです。
好きな人と付き合えるイスは1つだけ。
ライバルがたくさん。
でも、
一つしかない。
みんなでしあわせになろうとか、
言葉がふわふわした言葉
嫌いじゃないけど、
ありえないと、思ってしまいます。
だから
いつも
焦ってしまいます。
みんな敵に見えてしまいます。
頑張らないとイスには座れません。
私は
しあわせになりたいです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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自らで椅子を作る
minimini様
川口英俊でございます。問いへの拙生のお答えでございます。
世俗的な幸せは、確かに椅子取りゲームかもしれません。
しかし、いずれにせよ無常であり、実体としてはあり得ていないもの・・幻、砂上の楼閣のようなものです。
いずれ脆くも崩れ去るような砂の塔を作っているような感じです・・
そういえば、内容はよく分かりませんが、「砂の塔」というドラマと歌も最近にあったようですね。
まあ、とにかく世間で言っているところの幸せなど、真なる幸せではないと仏教では考えます。
もちろん、世間的な幸せになるためにも仏教は大いに資するものにもなりますが、そんないずれ崩れ去るような椅子に何も自ら好んで座る必要はありません。むしろ、譲ってあげるぐらいの気持ちも必要です。
それよりも、悟り・涅槃という究極の幸せの椅子を狙っていきたいものであります。
また、その数に限りもありません。なぜなら、その椅子は、自らで作るのですから。
世間の幸せの椅子もそうです。自分で作り、自分で座ればよいのです。
幸せかどうかは他によって決まる、決めるものではなく、自らで決めていくようなもの。良い結果へと向けては、自らによる良い因縁(原因と条件)の努力を。悟り・涅槃も、その結果へと向けて、仏法を拠りどころとして、自らによる善き因縁を、です。
是非、仏教を学び修して頂くことで、脆く崩れることのない幸せの椅子も作って頂きたいものでございます。
お幸せを祈念申し上げます。
川口英俊 合掌
幸せは、数限定の椅子とりゲームではありませんよ。
miniminiさん、こんにちは。
幸せについて、不平等ではないかと考えているのですね。たとえば椅子取りゲームのようだと思うのですね。それは違いますよ。miniminiさんは幸せの基準が間違っているのです。
社会のシステムは、椅子取りゲームです。勝ったものが最初に好きなものを選ぶことができます。でも勝ち負けの勝負も平等ではない場合もあります。だから人類は歴史を重ねながら民主主義というシステムを作り上げ、貧富の差に関係なく努力した人が勝つことができるシステムに持っていくことを目指しています。日本は世界の中では差別も少なく成功している一つの国です。我々国民からみたらまだまだですが(笑)。
そして幸せとは、物質の欲望に関係なく、自分の心で得る精神です。例え一番でなくとも得られる幸せの価値があります。スマップの『世界に一つだけの花』(私好きではなかったのですが(笑))でも語っていましたね。それぞれ違う花を持っているのですから、幸せの比較なんてできないのです。
要は自分が幸せは今ある環境でどう感じて行くかなのです。それはあなたが夢に向かって進む努力だと思います。あの曲に一つ足りないのは、それぞれの自分の特性に合わせて努力することがないのです。努力している今が素晴らしいのです。努力を止めると人は向上しなくなります。
是非、miniminiさんも自分ができる努力をしながら、幸せをつかんでください。幸せは一つだけではないのですから、みんなの幸せはあり得るのです。
がんばって!合掌
質問者からのお礼
例えば、
世界に一つだけの花だって
オンリーワンなればいいって言われても、
花屋は花が咲いていないと
花屋には並べてくれないですよね。
自分は、並べてもらえるのか、
すごく焦ってしまいます
いろんな人がいますよね。
私は私の価値がわからないです。