決心することについて
おはようございます。
何も考えなくても事が進んでくれた、保護者がいて、監督者がいて、自分と仲良くしてくれる友達がいて、なんの過不足も悩みもない居心地の良い環境に今まで私はいました。
しかし、大学に進学し、一人で生活し、社会に触れる機会が多くなって、環境がガラッと変わって。バイトで分かった短所。自分の要領の悪さとか、覚えの悪さとか、物事を良い加減にしちゃう、つまり詰めが甘いとか…。大学では夢なんか追いかけて馬鹿じゃないの、こんな自分じゃ夢どころか普通に働けないんじゃない?とか。
なんだか急に自転車の補助輪が取れて、一人で漕げなくなってしまった子どもみたいになってしまいました。
(これからどうすればいいの?まわりの人が助けてくれたり、多めに見てくれたりして補ってくれてた部分は自分一人でこれから補ってかなきゃないの?自分が思ってる以上に欠点、短所、足りないところがいっぱいあって…、それだけでも情けないし…恥かしい…なんでこんなことできないんだろう…今まで自分は口だけが達者で、実際自分になったら何もできない人間だったのか…、努力するのも今までめんどくさがって良いとこまで行ってあとはポイっ…聞こえはいいけど世渡り上手に苦いとこは避けて甘い部分だけかじって生きてきて…情けない情けない…夢はあるけど、こんな自分じゃ夢なんてすぐ諦めるんだろうな、夢を捨てて普通の会社に勤めても…きっとすぐやめちゃうんだろうな…うわー…自分ってこんな意気地無しだっけ…もうやだ…)
と、毎日心が重いです。
今の状態を一言で表すなら「甘え」だと思います。私は今年で二十歳です。大人になるって、どういうことですか。同い年の子はもうすんなり自分でなんでもできて、なんでも決めて。立派な大人に見えます。私はこんなに甘えてて、なんにもできなくて。
不安です。一人で生きていけるのか。
夢があります。いっぱい、幸せになりたいです。自分の憧れてる姿と、今の自分は天地の差です。毎日涙が出ます。
人より多分わたしは臆病だし、変わる勇気も幸せになる勇気も努力する強い心もない…、要領も悪いからきっと遠回りばっかでやりたいこと、なりたい自分に近付けてない。
最早何を相談したいのかわかりません、ぐちゃぐちゃしています。
諦め癖がある 情けない 怠け 臆病
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人生とは、自転車に乗るが如し
ご質問、拝読いたしました。
さて、文中に自転車の例えが出てきましたが、人生における「補助輪」ってどんなものでしょう?
両親の援助、小中高校時代の環境、保護者...
それだけでは無いんじゃないかな、と思います。
人生の補助輪は、自転車と違って2つだけでは無く、無数に存在します。
そして一気に取り外されることも、一つも無くなってしまうことも、決してありません。
仕事をフォローしてくれる先輩、気にかけてくれる友人、大学での学びや、好きな本や音楽…
これらも立派な「補助輪」です。
場所を変え、形を変え、手段を変えて...
色んな人々や出来事、仕組みを通して「補助輪」はあなたを助けてくれます。
僧侶である私は、その「補助輪」を「仏さま」と呼びます。
今のあなたが混乱しているのは、
人生のステージの変化に伴って姿かたちを変えた「補助輪」にまだ馴染んでいないだけです。
決して、周囲の助けが無くなったわけでも、急にひとりで生きていくことになったわけではないのです。
時が流れ、ふとした瞬間に足元に目を向けると、あなたを支えてくれている多くの「補助輪」の存在に気がつくはずです。
ところで、人生の補助輪とは、何のために存在するのでしょう?
答えは、とてもシンプルです。
あなたが自分の足で自転車をこぎ、夢にたどり着くためです。
補助輪がオートであなたを目的地まで運んでくれるわけではありません。
補助輪はあなたが夢に向かって進もうとするからこそ、支えになってくれるのです。
ハンドルを握って行き先を決めるのも、そこまでペダルを踏むのもあなた自身なのです。
でも、怖がることはありません。
初めて、自転車に乗った日のことを思い出して下さい。
自転車のペダルは、最初が一番重く、苦しかったのではないでしょうか。
スピードがでるまでは、不安定でバランスをとるのもやっとのことで、
ときにはよろけてとまり、擦り傷をつくり、
そんな自分が情けなくて、泣きたくなったときもあったかもしれません。
しかし、徐々に自転車がのりこなせるようになったとき、風を切る快感や新しい景色への感動、
そして自分の力で出来ることが広がっていったことへの喜びがあったのではないでしょうか?
人生も、一緒です。
自分の力を信じて、目標へむかって少しずつ前に進みましょう。
きっと大丈夫ですよ!応援しています!