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浮気と無責任?彼との結婚

回答数回答 1
有り難し有り難し 24

もしかしたら今年中に結婚を
するかもしれなくなりました
付き合って1年経ちました

私も彼と結婚はしたいです
しかし、今年の2月に男友達と一緒に
ナンパした子と2回会い
その2回目でエッチしたと思われます
そのあとは私が連絡を削除させましたが
その前に私がさせたLINEのブロックを自分で解除したりと
反省してないな…とも思いました…
なんでこんなことするのよ!断れよ!と
言ったら男友達(既婚者)最後が遊びを
したいと約束してしまったから…
そういうやつかと思い誕生日プレゼント
貰ってから別れてやろうと思いながら
何だかんだ時間がたってしまいました笑

最近結婚を前提にという事を承諾したからか
仕事がハードで疲れてしたのか
断りもなくエッチの時に中出しをしてきました
避妊していなかった私も悪いのですが
ちょっと無責任だと思いアフターピルを飲みました
それを飲んだから今ならまた出してもいい?と
言ってきて呆れてしまいました
それについては怒ったので分かってくれたとは
思いますが…

本当に結婚してよいものだろうか…と
人生を左右するものなので考えています
彼は中学校までは両親の元で過ごしたのですが
高校からはその職業の専門高校へ行き思春期に
お母さんに甘えられず女の子もいない
その高校の先輩に悪いことを教えてもらい
性に関して軽く見すぎているんだと思います
仕事に関しては頑張り屋で尊敬しています
だけど、私生活は未だに男子中学生並の
考え方をしているようにも感じます

でも、好きなんです
女癖と性の無責任?以外はギャンブルもしません
性格、金銭感覚はあっているとは思いたいです
浮気してから彼も信頼を取り戻そうと
努力してることもわかることもありました

そして、芸能界にも関わらず
不倫をしている人達はわんさかいます
もちろん中にはしない人もたくさんいます
その人を選べばいいですが
私は見る目がないようなので泣
彼の話を聞いた限り遊び尽くした感じは
あるのですがなんせまだ25歳ですし
今までの感じだとストレス発散をエッチなど
してして発散していると思います
なので、また浮気するかもしれません

だから、今の考え的に性欲が無くなっても
笑っていられる人と
一緒になりたいと感じましたが
どうなのでしょうか…
まだまだ甘い考えなのでしょうか
一緒に成長していけるでしょうか


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分のことしか考えられない人とは一緒になってはいけない

その人はかなり自己チュー🐭だと思います。
自己中心的な男性との結婚は止めた方がいいです。ホントに。子供ができてから苦労します。
好きだとかなんだとかを第一理由に結婚している人はみんな不幸になっています。相手をきちんと判断していないからです。
いくら好きであっても相手を総合的に判断する上で一番大切な所はそこです。
言葉では嬉しいこと言ってくれましょう。
ですが、その人の実際の行動を見てください。
浮気するわ、無責任な行動するわ、あとは自分でご判断ください。お幸せに。
個人的結論:もう少しまともな人と結婚して親を安心させてあげてください。幸せな恋人関係を送っている方はそもそもこんなところに相談にも来ないことを想像してください。
あなたも本心で不安に感じているはずです。分かっているはずです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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