苦しみからの解放
たまにとても辛いことがあると自殺を考えることがあります。
「今自分が抱えている苦しみは死ぬことでしか消えないんじゃないか」だとか「いなくなることではじめて誰かの役に立つんじゃないか」そう思うことがあります。マイナスがゼロになるだけでも十分みたいな感じでしょうか。
こういう時はどうしたらいいのでしょうか?
※ただ、実践(未遂)には至っていません。生きようという意志みたいな前向きなものではなく自殺の途中で生じる痛みへの恐怖自殺失敗への恐怖みたいなのでその域にまで達してない感じです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「苦しみ」もいただいた「有り難い」もの
生きていると辛いこと、苦しいことがありますね。しかし、死んだら辛さも味わえませんし、苦しめません。そうしたくたってできないんです。
生きていると、嬉しいこと、美味しいこと、楽しいことなど、ちょっとした幸せを感じることもあると思いますが、それら自分にとって都合のいいものだけをもらって後はいりません、というわけにはいきません。
なぜなら、この生・いのちすらそもそもいただきものなのですから。自分が自分の力だけで生きているなら自分の好きなものだけ選んで生きたらいいのです。でもそんなことはできない。生かされているいのちだからです。
それならば、辛さも苦しさも有り難くいただきましょう。そしていただいたものは大事にしましょう。もともと自分のものじゃありませんからね。
そして、いただきものですから全部自分に責任があるわけでもありません。そういう時は「ご縁」のせいにして楽になりましょう。全部「ご縁」からのいただきものです。
いただきものは自分が作ったものではありません。作られたものをいただいたのですからたまには作りにケチをつけたっていいんです。
そうやってうまく「ご縁」と付き合えるようになるならば、生きるのが少しに楽になるかもしれません。
都合のいいものも、悪いものも、全部いただけるなんて有り難いなあと喜べるかもしれません。
お釈迦様は苦しみには原因があり、だからこそ滅することができ、滅するための道があると説きました。
また、阿弥陀という仏の教えにより、苦を滅する実践ができなくとも苦を抱えたまま救われる道をも説きました。
道は開かれています。その道は「誰かの役に立つため」なんかのために与えられたわけではありません。
「役に立つ」なんて価値観は与えられた「ご縁」に我々が自らの都合で良し悪しを付け加えた相対的で一面的な価値観です。
役に立つため、何のため、誰のため、なんていう「なぜ?」と理由を問う前に、いのちを与えられたという事実があるのです。事実から始まるのは自由です。いただいたすべてのご縁にたいしてどう応えていくか自由があります。
苦を「苦しむ」ことも「喜ぶ」ことも自由です。そして自分の都合がそれをどう判断するにしろ、いただいているという事実は「有り難い」以外の何物でもありません。
諦めないでください
拝読させて頂きました。
おっしゃる思いとてもよくわかります。
死が訪れてくれば消えてなくなって楽になるんじゃないかと考えてしまいますよね。
それでもどうか生きることを諦めないでくださいね。苦しみが消えてなくなるかはわかりません。
あなた自身のことですからどうか諦めないで少しずつでもお向き合いなさって頂きたいと思います。
苦しみはなかなか尽きることはありませんが、それでも与えられた命をかけてしっかりと生きて頂きたいと願います。
生まれてきたことには意味があるのです。生きることであなたは成長して学んでいくことがあなたの使命です。
苦難をどうか乗り越えて正しく生きることそして充実した毎日を過ごし円満な自分を形成なさってくださいね。
あなたを心から応援しています。
どうか諦めないで少しずつ前進なさってがんばってくださいね。
質問者からのお礼
ありがとうございました。どうにかやろうという意欲が出てきました