こんなこと…質問するべきではなかったかなぁ…悩
お世話になります。
子供の頃から病気や怪我ばかりしています。
手術2回、ギプス3回、骨折6回?、入院は・・多くて忘れてしまいました。
身体が弱いと言う方ではないのですが…。
精神科の主治医も、先月「今度は骨折ですか…本当に多いですよね(笑)」と仰るほどです。
病院で既往歴を書ききれないので、いつも印刷した紙をお渡ししますが、どこでも驚かれます。
主治医曰く、「抱えきれないものが身体を通して出て来るのでは」と仰いました。
以前、私も、『何か訴えたいことを身体が表現しているのかな?』と考えたことがあります。
今は、『今年はどんな病気(怪我)になるのかなぁ…』と考えてしまいます。
先日からお腹が痛く、次は何だ?と考えてしまいます。
仏教的に、病気や怪我の良し悪しは、人間が決めているだけのこと…と教わりましたが、身体や心、金銭的にも負担なので、病気や怪我はやはりない方が良いです。
普通に(できれば元気に)生活できる日が、数える程しかないのは辛いです。
なぜ、私はこんなにも、既往歴が多く、またこれからも多いと予測されるのでしょうか?
主治医の仰る通り、抱えきれないものが身体を通して出て来ているのでしょうか?
『そんなことはわからない』と言われればそれまでなのですが。
仏教的に何かあれば、教えていただきたいです。
宜しくお願い致します。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人生は先ず四苦ですから
拝読させて頂きました。なるほど、病気や怪我で大変つらい思いをなさっていらっしゃるご様子ですね。
生きている中では避けられないトラブルやアクシデントもあるでしょうからね。あなたのお気持ちをお察し申し上げます。
人生とは先ず四苦が前提です。
生まれる苦しみ、老いる苦しみ、病いになる苦しみ、そして死ぬ苦しみですよね。
それはだれにも与えられていることです。大なり小なり状況により多少の違いかあるでしょうが、全ての人に与えられていることです。
できるならばそのような身の上にあることをしっかりと受け入れていくことです。
そして仏様に正しくお導き頂きます様にと願いながらお健やかに生きていくことです。
そうすることで心は少しでも休まります。そして心の病いは沈静化致します。
病いは気からです。心が健康であるならば病いになりずらい状態となります。
全てを仏様にお任せなさり、生きていけることを心より感謝なさることであなたの人生や置かれている状況も大変変わります。
人とは人生とは生老病死があるものであることを素直に受け入れて全てを仏様のお導きにお任せなさり、これからの人生を安らかに穏やかに生きてくださいね。
あなたのこれからの未来が正しく仏様のお導きを受けて、お健やかに生きていかれます様にと心よりご祈念申し上げます。
「まぁいっか」とつぶやいてみる
ひかり様
こんにちは。拝見させていただきました。
私は医療の専門家ではありませんから自身の経験則でお話させていただきます。
ひかりさんの身体の事については失礼を承知で言うと自傷行為の現れではないかと推察いたします。自分自身(及び身体)への価値の低さ。自傷行為とは「受けとめて欲しかった」「理解されたかった」「愛して欲しかった」「話を聞いてほしかった」「そばにいてほしかった」「大事にして欲しかった」という欲求の現れだと私は思っています。外に向けば恨みや怒りとなって放出できますが内に向かえば自傷行為や鬱病という形で現れます。
大人を信じていた幼少期のひかりさんは、「心に深い不安を抱えたまま他人を傷つけることで弱さを忘れようとする大人」がいる事を知らなかった。ですからそれらの大人の歪んだ価値観を「信じてしまった」のです。生きている価値がないと思い込まされてしまった。
あなたにとって大切にすべき人とは「あなたが嫌だと思ったことに対してNOという気持ちを受け入れてくれる人」です。不機嫌や言動で自分の欲求を発し相手を従わせようとする人達ではありません。
つらい中でもあなたはここまでたどり着きました。生きてきました。それはものすごい苦労と努力だったと思います。ここまで生きてきた自分に「よく頑張ったなぁ」と声をかけてあげてください。またこうやってハスノハと御縁を持たれ仏様に出遇いました。あなたは仏様に護られている人だと私は思います。
親の価値観の人生、心ない人間の価値観の人生を捨てて自分の人生を歩みましょう。もちろん楽なことではありません。「弱い自分」を「つらかったねぇ」と受けいれてあげること。そして一歩踏み出す覚悟(過去の出来事を受け入れ自分の心に従って生きる)が必要になります。
日々の生活の中で自身の行動を注意深く気に留めてください。歩く時は靴が地面を踏む感覚、物を持つ時は物が手に触れる感覚。鈍った感覚を意識していく事。そして当たり前の事に感謝する事。しなければならないと思わずに。思えなくても良いです。これは道徳的な事ではなく自身が世界とつながっている事を再確認するための行です。
本当に頑張ってこられましたね。ここいらで少し休憩しても良いのではないですか。心の手綱を少し緩めて日の光、風、自然の音をただただ感じてみませんか。応援しております。
合掌
質問者からのお礼
kousyo Kuuyo Azuma 様
ご回答ありがとうございます。
四苦…生まれる、老いる、病いになる、死ぬ・・・受け入れられるのは、今のところ老いと死、です。生まれて来なければ良かったのにと、未だに考えてしまいます。
2つ上の姉が、生まれて直ぐに亡くなりました。それがなかったら、私は生まれなくて良かったのです。
2歳の頃、泣く度に鼓膜が破れていました。3才、5歳で自転車の後部席から落ち、頭をコンクリートコンクリートで打撲、1回は7針縫っています。そして7歳でプロフィールの通りの病気になりました。同じく7歳頃、原因不明の腸の病気で死にかけています。
病は気からではありますが、そんなこと考えられない年から、私の病気や怪我は始まっています。なので、仏教的に何か考えられることでもないかなぁ?と思い、ご質問させていただきました。
私はそういうモノを背負って生まれてきたと、受け止めるしかないのですね。
>『そして心の病いは沈静化致します』
そうだと良いのですが…苦笑
>『全てを仏様にお任せなさり』
そうですね。また忘れていました。ごめんなさい。
なかなか、生きていることを感謝できる状態まで上れません。昨夜も、もう少しで大量服薬するところでした。
生きるってしんどいですね。行き続けるって辛いですね。
早く死が訪れることを願いながら、今日も闘っています。
ありがとうございました。
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けんじゅ 様
ご回答、ありがとうございます。
経験則とのこと。けんじゅ様もお辛い経験をされて来られたのでしょか。
精神科のお医者様の様な、“理解しているよ”と包んで下さる様なお答えでした。
多分私は、ずっと我慢して育ってきました。4人兄弟姉妹の末っ子で、小学3年のときにやっと甘えられる順番がきたときに、両親が姪(私からは従姉妹)を預かり育てました。
従姉は何もできず、「あんたが教えなさい」と、私が姉の様な形でいろんなことを教えました。
従姉がいるため、いつも“良い子”でいなければいけないと、私自身がそんな風に考えていたのだと思います。甘えは許されませんでした。
そういったことも、身体に出ているのかも知れません。
病気や怪我が自傷行為という考えはありませんでした。自身が自傷することはありますが…。
>『外に向けば恨みや怒りとなって放出できますが内に向かえば自傷行為や鬱病という形で現れます』
驚きました。
以前、主治医が教えて下さいました。
「根底にあるものが内へ向かえば自殺、外へ向かえば他殺になる」と。
けんじゅ様が同じことを伝えて下さり、本当にビックリです。
ここまで生きて来られたのは、もう1人の私が背負ってくれたからです。私の中の数人が、代わりに生きてくれたからです。
その人たちに「よく頑張ってくれたね、ありがとう」と、背負ってくれた私に「辛い思いをさせてごめんね」と、声をかけたいと思います。
逃げてしまった幼い自分には、なんと声を掛ければよいのでしょう・・・・やはり、「辛かったね…」でしょうか。
>『それはものすごい苦労と努力だったと思います』
ありがとうございます。涙が出そうになりました。
まだ私は、自分の人生を歩んでいないのですね。踏み出せていないのですね。自身の心に従って生きていないのですね。
確かに、そういう病気も持っています。
全ての感覚が遠くに感じられ、自分が自分でない様な、何処か別の次元にいるような。薄いベールを目の前におかれている感じです。
それらをも理解し受け入れ、尚且つあらゆる感覚を意識していけば良いのですね。
自然を感じることも、忘れています。
大地のエネルギーも、光のあたたかさも、風の音も、水のきらめきも・・・・ここのところ、感じるこかとを忘れていました。
大好きなはずなのに。。。。
自分を許し、他者を許し、自分が自分であることを、意識してみます。
ありがとうございました。