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仏教での占い

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お釈迦様は占いを禁止されたようですが、お坊さんでも占いをしている人を何人もみたことがあります。
真言宗以外で占いを禁じていない宗派はありますか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

マジ、ない。(まじない)

こ・ん・に・ち・は。💀
自称・仏教界の正統派、ウラ無し、タネなし、オモテナシ♡の丹下・クリステラ(寺)です。
仏教は明晰性のあるものの見方ですから占いなどの根拠のないものはペケです。
よって、結論はタイトル通り。あしからず。
何故なら占い師に同じことを20人に占ってもらうと答えが別々になるからです。
じゃ、結局選ぶのが本人ですから、本人が自分にとって気にいった、都合のいいものを選んでんじゃねーか、つーことです。ということは占いは本人にとって精神的に悪いことや不安な事、魔事をなくすからマジで「まじ(魔事)ない」なのです。マジ?ホント?その話、裏ない?って?シャレじゃなくて本当です。(シャレだ)裏もなく、タネもありません。まやかし無しのマジ、うそじゃない、マジ嘘の無い話。嘘はマジ、ない話こそが本来の仏教です。
ただし、どーしても占いじゃないと信じないような人間もいるでしょうから、そういう人には占い、まじない、と称してでも「正しい方向」へ導くのであれば100歩譲って方便としてならOKでしょう。
実際の占いは相手をよくみている。コールドリーディング、観察眼を駆使した導きですから、その人の導き先さえしっかり定まっていれば、占いという手段でなくても、導けるものなのです。
祈祷もありますしね。
この話は非売品ですから「売らない」話です。
他じゃこんなホントの話は得(う)ら(れ)ない話ですので。
ですから、あれこれ選(う)らないで、ものの本当の事を語っているはなしをのみ、選択するべきです。
私の話を信じるも占い師の話を信じるもあなた次第。 

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

ウラ ない

「うら」がないから、占い。
種も仕掛けもないから、占い。
仏教は、拙僧は浄土教の信者なので、阿弥陀さまという、
超越ワイルドカード、オールマイティカードがあるので、
裏があるので、占いはしません。
どこをどう引いても出てくるのは、
阿弥陀さまのワイルドカードだけ。
金太郎飴のように、いつでもどこでも、阿弥陀さま。
あ、阿弥陀さま、また、阿弥陀さま、、また阿弥陀さま。
ですから、口から零れ落ちるのは、お念仏だけ。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

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おきもち

個別相談可能
浄光寺の三浦康昭です。 くよくよと考えてもしかたがありません。明るく前向きに楽しく愉快に生きていくためのヒントを自分自身も考え続けながら、また少しでも皆さんのお役に立てればと考えています。できるだけ、わかりやすく簡単にお答えしていきたいと思います。どうぞよろしくお願いします。現在も整骨院をやっていますが、医療福祉関係の仕事に長年従事してきました。他に、知的障がい者施設の仕事に関わらせていただいています。また、イジメや引きこもりなど子どもたちのために何かできることがないか、現在模索中です。フリースクールをお寺で開講予定しています。仏教特に浄土学は死ぬまで研鑽だと思っていますが、居眠り専門なのが、課題です。

質問者からのお礼

丹下さん

お坊さんのほうを信じます。ありがとうございました。

三浦さん

南無阿弥陀仏。ありがとうございました。

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