足るを知るとはどういうこと
いつもお世話になっております、今日あるお寺さんにお参りした時に引いたおみくじ(厳密には違いますが)にあった言葉で思った事があるので質問いたします
そこに書かれていたのは「足るを知る」という言葉で、自分でも何度か聞いた事はあるんですがこの言葉と自分の生活を良くしたい、豊かになりたいという考えは矛盾するのではということです。
足るを知るという事は、自分が恵まれていると感じる事でそれなら豊かになろうとする必要は無いのではと思います。これが足りないから手に入れよう、と考えるもので満足している、恵まれているならそれ以上は必要に感じる事は無いはずです。
数字で言うなら、90%を100%にしようとする事と100%を110%にする事は違うのだろうと思いますが、私にはこの違いがよくわからないのです。
世間で言う金運アップやそれに関する本やその他色々の媒体では後者を言いたいのだと考えていますが、大抵の人は前者で考えそうですし自分もそうなのではと思います。
例えば、年収を倍にしたいとか家が欲しいとかそういったことは現実としてそうなってないから望むのであって、なっていれば即ち満たされていれば望む事がない、望む理由がないのではと思います。
お腹が空いていれば何かしら食べようとしますし、空いてなければ食べる必要はないです。仏教だと欲自体は悪ではなく、どう折り合いをつけるかが大事と聞いた事があるので、欲自体を悪とは言わないのでしょうけど…
自分も含めて現状に不満がある、つまり足りてないから金運アップの行動やその他色々行動をするのであって満足していれば必要性を感じる事があるのだろうかと疑問に思いました。
自分の生活を良くするための色々な行動とこの言葉は両立しないのではと考えて質問しました。自分自身も生活の質を上げたいと思っているので、否定されたとまでは言わないですがこれまでの行動は実は矛盾しているのではと改めて疑問に思いました。
足るを知るからこそ、より良い生活を求められると言う人もいますがぱっと見でも辻褄が合わないように思えます。
より良い生活、豊かさを求める事と足るを知るは両立するのかどうかよろしければ教えていただければと思います。
家族:母一人 性格:真面目過ぎる、頭が硬いとは言われた事がある 過去:人生が嫌になり数ヶ月引きこもった後に自殺しようとした。その後も何度か似たような事があった。
母親への怒り、恨み 自分自身への失望 人生の自由が得られない事
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
少欲知足の真意
知足とは釈尊の八大人覚がルーツです。
八大人覚とはこれをやれば悟りを成就できるという教えなので、道徳的な解釈ではありません。
知足とは、すでに得られたものごと(今この身心が出会っていることの意)の中で、受取するに❝限りをもってする❞ことを知足というのです。
世間の一般的な仏教では少欲知足と言えば、欲を少なくしなさい、足ることを知りなさいという程度の意味でしょうが、正伝の仏法とはそれを通して悟り、涅槃という聡明で安らかな心が成就されなければ、おおよそ道徳的な解釈や個人的な我流の解釈に陥り、真意とは外れた方向に向かうものです。
「知足」ということで迷われるのも、知足ということを概念として取られているから、人間世界の価値観にとらわれて、Aの場合はこうではないか、Bの場合はこうではないか、と論理的な思考や条件付けにあてはめて矛盾が生ずるのでしょう。
では知足とは理論、論理、論理的な思考や概念ではないのか?といえば、まさしくそうなのです。理屈ではなく、あなた自身の今の身心の実相を言っている。
道徳や価値観の事ではなく、人間の本来性の話を釈尊が説いておられるのです。
ここは多くの仏教者たちも真意とは異なった解釈をする人が多かったのです。
だから、いわゆる少欲知足とは道徳的な解釈として広まっているのでしょう。
知足の真意とは、人間が何かに接するとき、出会うとき、そこに一切の私見や解釈、価値観、良し悪しを運ぶことのないままに授かっている「こと足りている」ことを知りなさいということです。
人は元々成仏している、成仏体、活きた成仏の作用体なわけです。
もともとのところで何も問題なく生活がなされているところがあるから、「そこに足るを知れよ」ということなのです。
仮に野球のボールが飛んできて頭に当たってもゴン!ということが先にある。
腹が立つとか、へこむとこ、あれこれ思う前に、ゴン!
このボールが誰が打った、投げたとか、ないでしょう。
スタジアムで大谷選手が打ったホームランボールが当たったならば喜ぶ人もいるでしょう。
知足というとすぐに物質的および経済的な話に論点が切り替わる傾向がありますが、本来、経済とか物質の話ではないのです。
チャイムが鳴る、風が当たる、香りがする。
そこで他の物を交えずに受取している。限りをもってなされている。
それが人の涅槃の消息です。
詳しくは当山禅会まで
やってダメならあきらめる
90点の人が100点を目指しても結果的にやはり90点だったときに、すんなりあきらめて90点で満足すれば良いのです。
ないものを求めて悩み苦しむのではなく、あるもので満足する。
もっともっとと富を求めるのではなく、皆が手の届く範囲の豊かさで満足すれば、戦争も減るでしょう。
質問者からのお礼
丹下 覚元様
回答ありがとうございます、そもそもが道徳的な解釈ではないということに驚いています。自分がこれまで知った中だと大半の内容が理論や理屈、概念の側ということになるので少し考えると矛盾を抱えることになるんでしょうかね。
今の自分の心身の実相、となるとこれもわからなかったりしますが…客観視出来れば見えてくるものもあるのかもしれません。
>願誉浄史様
回答ありがとうございます、やれることを全部やって90点ならその本人は納得するのかなと思います。結果として出なかったとしてもそれまでの過程が無駄になるというわけではないですからね。とはいえ、現実としてはその本人以外の人間のどれ程がそれを理解してくれるか…という問題もあるかと思います。良きにしろ悪きにしろ人の数だけ事情があって、自分の意を通すならそれも良きにしろ悪きにしろ力というものを求めるしかない…なんて考えもします。