こんな私が生きていて良いのでしょうか
昨年、交通事故を起こし、体がぼろぼろになってしまいました。
幸い、相手の方にケガなどなかったのですが、私の会社の車は廃車に、私の体も何ヶ所か損傷してしまいました。
自然治癒しないところを損傷したので、リハビリで成果が出なかったら手術と言われています。
損傷しているところが痛く辛いというのもありますが、損傷がないところも事故前よりも明らかに違和感があったり、痛かったり、何をするにも上手く動けなくて、毎日しんどいです。
ご飯を食べたり、車の運転をしたり、そんなことも以前のようにできません。
体を動かすことが好きだったということもあって、ストレスもたまってしまい、自分を上手くコントロールできなくなっています。
自分が起こした事故、悪いのは全て自分ですが、体が以前のように戻るかという不安があり(直感的に以前のようには戻れないのではないかと思っています)、もうだめなのではと思ってしまうこともあって、真剣に自殺を考えてしまいます。
どう過ごしたらいいでしょうか。
こんな私が生きていても良いのでしょうか。
どうにか体を取り戻せると信じていますが、ふと希望が持てなくなったり、死んでしまいたいと思ってしまいます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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ご縁の中で生かされる私
交通事故ですか、それは大変な経験をされましたね。
今現在も心身ともに体調すぐれず、リハビリに励んでいらっしゃるとのこと、お見舞い申し上げます。
さて、「生きていて良いのでしょうか」とのことですが、それは当然ながら生きていて良いのです。
誰もあんず様の生死を決める権利はありません。そして実は自分すらそうなのです。私の生死は私ですら思い通りにならないのですね。
だからこそ、他の誰でもなく生きる事を自分が許せないと、生きていて苦しい思いもなさるのではないでしょうか。
そうであるならば、たとえ自分では許せなくとも仏様が許してくださると思えば少しは楽にもならないでしょうか。絶対的にあなたを許す世界があるのです。
別に仏様が我々の生死をコントロールしているわけではないですが、そのようにいただくことが信仰です。信仰は生きる力になるのです。
事故前はご自身の体をコントロールできているとお感じでしたでしょうが、実際には我々はこのいのちをいただいて生かされており、思う通りにコントロールできるものではありません。
心臓も何もかも私の意志とは無関係に動いており、生きる力に満ち溢れています。
そして、私が目の前の物を取るという単純な動作一つをとっても、それは私の力だけでなく数々のご縁によって成り立っている出来事です。
物を取る瞬間に地震が起きないとか、誰かが邪魔しないとか、「ない」というご縁が「ある」ことで私を支えてくださってもいるのです。
そうしたご縁の深さ・広さに思いを馳せる時、私は思い通りにならないいのちを生かされているのだなと気づかされます。
自殺を考えてしまうのも、事故を起こしてしまったのも、もうだめだと思ってしまうのも、ご縁によっていただいたものです。
あのご縁はいるけど、このご縁はいらないとはいかないものです。いただいたものは「こんなものいらないやい!」と突っぱねていても自然と目に入って来てイライラするでしょう。
それなら「いただいたし大事にするか」と受け入れたほうが楽にもなるのかもしれません。
元の体を取り戻せると信じ、希望を持つことも大切なことです。しかし、今のあなたのご縁を受け入れながらそれができるともう少し心が軽くなるかなあとも思うのです。
あなたの体調回復を願いつつ、あなたが今のあなたのいのちを喜べることも念じております。
どうぞご自愛ください。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございます。
"自殺を考えてしまうのも、事故を起こしてしまったのも、もうだめだと思ってしまうのも、ご縁によっていただいたものです。"
もし自殺してしまったとしてもそれもまたご縁なのでしょうか。
生きてゆけるか不安です。