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もう30代なのに今だに中学の頃言われた暴言が忘れられません

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中学の頃、授業の合間の休憩時間に廊下で友人と話をしていたら同級生の男子に「ブス!!!!!!!!」と大声で叫ばれました。

からかい等ではありません。名字と顔しか知らない、会話をしたこともない男子です。
中学生男子なんて可愛い女子とそうではない女子とでは扱いに天と地よりも差があります。逆もあるのでしょうが。

その時、その人は私の背後から叫んでいたので、聴こえていないフリをしてロボットのように友達と話を続けました。その時の友達の反応、廊下中に響く大声を聞いた周りの同級生の反応は記憶にありません。叫ばれた瞬間、蛇に睨まれた蛙のように硬直し全体に白いもやがかかった感じになったからだと思います。

小学校の頃から自分は美人ではないと自覚しておりました。そして中学でそれぞれ別の人に数回「ブス」と言われ、自他共に認めるブスなんだと自覚しました。さすがに高校大学社会人となるとオブラートに包まれますが。もう男性不信状態です。

他のボソッっと言われたのも辛いのですが、大声で叫ばれた件だけは今だに脳に焼き付いてふとした瞬間に思い起こされてしまいます。そして、芋づる式に他の件もフラッシュバックしてしまうのです。

その度、あいつはもう死んでる、もしくは天罰が下って酷く惨めな生活を送ってる、そう思うようにしています。しかしそうやって考える度に『これでは永遠にあいつが自分の頭の中に住み続けてしまう』と思い、苦しみの連鎖を止められません。

もうどこにも存在しない中学生に苦しめられる、そんな呪いのようなものを消す方法がございましたらどうかお教えください。本当にお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

取り入れない 相手にしない 挑発に乗らない

こんにちは。hasunohaイチのブサイク男たんたんたんげの金太郎飴です。切っても切ってもブサイクです。
私のように生まれついてのブサイクは、もはや受け止めるしかありません。
受け止めるとは、評価無しに生きるという事でもあります。
あなたは今、後頭部を意識していたでしょうか。後頭部?なんのこと?と思われたでしょう。
人によっては頭のカタチを気にする人もいるのです。
では、鼻や耳のことを意識していたでしょうか?
今言われたから、ちょっと意識されたかもしれません。
ですが、私ぐらいのHQBS=ハイクオリティ・ブサイクになりますと、眼鏡すらかけられることを拒否します。眼鏡をかけると傾くのです。
どうやら鼻と耳が左右で曲がっているようで、イヤ、顔面そのものが歪んでいるのかもしれません。北斗の拳かっつの。あべし!
そんなブサイクでブーデーの歩くWの悲劇こと丹下がなぜ、ブサイクを解脱したのか。興味はありませんか。
はい。家中の鏡をヌンチャクでたたき割ったのです。嘘
いや、むしろ鏡をガン見するのです。
その中に映し出される天上天下唯の不細工、宇宙にただ一つのアートがどーんとそこにある。
よーく観察をしてみましょう。
私はその顔面ピカソの哀れな男(私)を目の当たりにしつつ阿僧祇劫もの長い間、坐禅をしていました。
坐禅とは、見るのではなく見えることです。聴くのではなく聞こえることです。
そして、そこに一切の想念を持ち込まないことです。
坐禅が坐禅になると、映る景色がそのままになる。
聴こえる音や声もそのままになるのです。
そのままになるとは害が無くなることです。
人畜無害の不細工になることなのです。
いやそれはもはや不細工ですらない。無災苦。
丹下のブサイクめと貴女が百万回私を罵っても、私は天地にただ一人のブサイクであるが故に、比較がないのです。そして、その言葉も禅定によって「受け取られない」のです。聴いているのではなく聞こえたままだからです。
あなたもフラッシュバックやトラウマは「b‐u‐s‐u‐」と念じながら、ただブスという音があるままにしてみてください。イメージ:マトリックスの銃弾よけ
沸き起こる想念に対しても、みるのではなく、視える。聴くのではなく聞こえるままにするように。
「思った」のではなく「思い起こされた」ままにしてみてください。
ブスという言葉に傷つかなくなれます。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

丹下様 ご回答いただきありがとうございました。
一切の想念を持ち込まないようにする事、言葉に込められた悪意や否定の念を思い起こされたままにする事、最初に拝読させていただいた時、私にはとても難しいと思いました。

しかし、質問前は自分の世界を覆ってしまう位の闇だと思っていたものが小さくなったように感じます。

以前は打ちのめされたまま沈み込んでおりましたが、悪意に抵抗するでもなく反撃するでもなく、意識的に消えろと念じるでもなく、何か良い言葉を心に浮かべるでもなく…。
すぐには出来なくともいつかはたどり着けるような気がしてきました。

頑張ります。ありがとうございました。

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