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欲について。

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有り難し有り難し 12

承認欲が自分にもあると理解できれば、楽になるし、誰かに認められたところで、一体なになる?と冷静に考えられるようになる、本当にそれが一体なんだというのでしょう?と、ある本に書いてあるのです。

質問です。
例えば職場の人など、立場がいずらくなるとこまる人たちに、認められない=嫌われた場合、今の私には大変つらいことなのですが、承認欲を本当に理解すれば、そのようなときも楽でどうでもよくなるのですか?

嫌われても、毎日平気で過ごせるようになるのですか?

今は理解できて少し楽になってるようで、まだまだ理解できていないということでしょうか?


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

事実と感情の差

物事の道理を知的に理解することと、それに感情が伴うかどうかは別でしょう。

人に嫌われることはやはり辛い事ではないでしょうか。「辛い、苦しい」という心の作用=感情は起きるものです。自分で起こすものではないのでコントロールできません。

しかし物事の道理を理解しているのならばその感情に溺れた所でどうにもならないことを知っています。辛さはなくなりませんが、「辛い辛い」と言ってても何も変わらない事実を知っているので、その辛さを引き受けて辛いまま歩んで行けるのです。

「嫌われた」という事実で私が辛くなるのは「嫌われたくない」という希望や「私が嫌われるはずなどないのに…」という思考が思い通りにならないところからくるのでしょう。

しかし「嫌われることもある」「嫌われることで感じる辛さは私を嫌う人から与えられているのでなく、それを辛いと感じる私の心から生まれているのである」という道理を知るならば、「嫌われた」という事実や「辛い」という私の感情を引き受けた上で、その事実や感情に停滞するのではなく、例えば「嫌われながらでも仕事は仕事として淡々と取り組んで行こう」とか、「円滑な人間関係は仕事にもプラスになるので関係の改善に努力していこう」とか「彼らが私を嫌うのはかまわないが私は彼らを嫌わずに接しよう」とか、次の一手を問うて実践していけるのではないでしょうか。

「楽でどうでもよくなる」ということではないと思いますよ。辛いものは辛いです。

辛くなくなるのではなく、辛さから逃げるのでもなく、辛さと真正面から向き合っていけるのが「救い」ではないでしょうか。

仏教の救いは「こころの救い」ではなく「存在の救い」。つまり感情を超えて目の前の事実と向き合っていける救いではないでしょうか。その事実を知らせてくださるのが仏智(仏法)という普遍の道理(真理)であります。

我々の感情はいつもこの道理(事実)と私の思いの差で苦しみます。しかし道理の通りには生きられないのが人間です。ですから道理に適うことが救いではなく、道理からそれている私が私の姿を教えられ、それではどうしたらよいか道を問うていけることが救いなのです。

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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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それも一つでしょう

拝読させて頂きました。
自分を認めてくれることは有難いことと私は思います。生きている人それぞれ共にお互いを認めて尊重し合いながら生きることが大切ですからね。

例えば仏様の様に高次元の存在であれば承認されようがされなかろうが全く気にも留めないでしょうしそこにこだわることもないでしょう。
仏様は悟りを開き自らの存在理由も確固たるものでしょう。仏様は誰かに自己存在を証明してもらう必要性がないでしょうからね。

ただ私たち人間は儚い小さな存在です。人の助けやさまざまなつながりの中で生きていますから自分の存在は認めてもらいたいと思うのが必然と思います。自己存在を肯定して頂きお互いが日々生きています。
過度に存在を認めてもらうことは必要ないと思いますが、今与えられた位置を自分で認識するためにも人とのかかわり合いを大切にするためにも自分を認めてもらうことを求めることは良いのではないかと思います。

その書籍の著者の意図や真意の程はわかりかねますが、そうお考えなさる方もいらっしゃるでしょうからそれはそれでお考えですから良いのではないでしょうか。

ご自分がどうお考えなさるかですしこの世の中でどう生きていくかです。机上の空論ではなく、概念だけでなく実生活でどうお考えなさり生きていくかです。

なんにでもこだわり過ぎて執着すればそれは生きる障害になりますし、全くこだわらな過ぎても生きていくのに軸足が定まりません。
人に自分のことを分かってもらおうとしつこくすれば嫌われるでしょうし、何にも意見も言葉も発しなければ人は自分を分かってくれはしません。

どちらか一方に偏ってしまうと大切なことを見失ってしまうのではないでしょうか。

いかがでしょう。あなた自身のお考えや生き方です。じっくり考えてみても良いテーマだと思いますのでよくよくお考えなさって実践なさってみてください。

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有り難し
おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
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質問者からのお礼

ありがとうございます。
辛いと感じながらも人間てそんなもんだ仕方ないと受け止める理解し、今を生きる、これも幸せなんだと感じました。
私は無理した道を生きるより、自分が本当に望む道を生きるほうが楽です。ならば少し頑張って自分を保ち、意思を曲げすに道をつくること。

どの道を生きていても
人にどう思われるのかは人次第。

生き方をまた学びました。
ありがとうございました。

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