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変化との向き合い方を友人の整形の話から回答してもらいたい。

回答数回答 1
有り難し有り難し 10

たくさんの方のお悩みと回答を読ませていただいております。気づかされることや、心が穏やかになることが沢山あって、救われています。ありがとうございます。
何度も申し訳ないのですが、また、質問させて下さい。

私のいろいろな悩みの原因は、「変化」に対する嫌悪感だと最近気がつきました。変わることが嫌で怖くてしかたがないです。 今回はこの嫌悪感をなくす方法を教えていただきたいです。

友人が先日、美容整形で目を二重にしました。私はそれも嫌だと思ってしまいました。

彼女は一重でしたが、涙袋のある魅力的な瞳だと私は思っていました。笑うとまつげがふんわり降りてきて可愛らしいのです。つまるところ、私は友人が整形するような外見ではないと勝手に決めつけていたんです。

そもそも、他人の美容整形のことですから、己がうだうだと考える必要もないことは頭ではわかっているつもりです。整形で本人の心に平穏が訪れるのなら、いいことだとも考えます。二重になった彼女は確かに顔立ちははっきりし、以前とは違う魅力も感じられます。

けれども、彼女が整形をしたのだと思うと、感情がいいところになおらない、居心地の悪さを感じます。

たぶん、自分の中の整形のイメージが良くないからでしょう。己の顔を卑下し徹底的に否定して、意図的に無理やり顔を変える、というイメージが整形にはあります。この勝手なイメージが友人を、己の美しさを理解できなくなってしまった悲しい人、みたいに私に見せている気がします。

本当は、素直に違う美しさを持った彼女を受け入れたいです。私も日々変わっているはずだからです。この、変わるということに抵抗を持ちながら生きることは、辛くて心に良くない気がします。私だって、誰にだって美しさはあって今の自分も好きだけど、体重を落としたいとか、髪の毛をさらさらで柔らかくしたいとか、もっと寛容と余裕を持ちたいとか、考えます。そんな願望と整形は、重なる部分が多いはずです。つまり、整形やもっと大きい「変化」を受け入れられないままでは、年を重ねた自分を愛せなくなりそうな気がするんです。それは、とてもつらいです。

否定するものが多いほど苦しいことが増える気がします。無くしていきたいです。私はどうすれば、変化が訪れても嫌だと思わずにいられますか?
よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

不断煩悩得涅槃

ご質問拝読しました。このご質問への回答はあなたの過去質問への回答をもう一度読み直せばそこにあるような気もしますが…私も今回感じたことを少々。

>この勝手なイメージが友人を、己の美しさを理解できなくなってしまった悲しい人、みたいに私に見せている気がします。

まあ、そういうことでしょう。あなたの価値観・ルール・意味付けというやつでしょうか。
で、今後の事も考え整形に限らず

>私はどうすれば、変化が訪れても嫌だと思わずにいられますか?

とのことですが、嫌だと思わないようにするよりは、「嫌だと思うたびにその原因を仏教の智慧の目から知らされ、たとえ嫌と思う感情が変わらなくとも嫌と思う私ごと仏様に受け止められる」のが仏教の救いなのかなあとも私なりに思います。

変化が訪れるのを嫌だと思わなくなるなんて花を見て美しいと思う心(感情)をもなくすようなものです。
そんなものは心をなくそうと心で考えるというもので、どこまでいっても「何かをなくそうとする心」が最後に残ります。それは思考の遊びというものです。

人間には煩悩があります。仏教では「漏れ」とも表現します。何らかの変化・刺激に反応が漏れる・垂れ流されるのです。
もちろんその反応を最小限におさえるためにクセをつけるようトレーニングすることはできるのでしょう。しかし縁に触れれば何でもするのが人間です。縁が整えばトレーニングもむなしく過敏に反応するでしょう。
ですから反応をなくすのでなく、反応するたびになんらかの「形」をとりいれて自らの反応の原因に気づくのがよいと思います。その気づきが救いです。仏との出会いです。
つまり煩悩をなくすことが救いでなく、煩悩によって確かに仏と出会っていると気づかされることが救いではないでしょうか。
その気づきのための「形」は私なら「南無阿弥陀仏の念仏」ですが座禅でも瞑想でも題目でもなんでもその人が出会った教えならその「形」足り得るのでしょう。

私なら整形という縁にふれて嫌な意味づけをしてしまったらお念仏をして、その意味付けにより自ら苦しむ私の姿を知らされます。そこに仏との出会い・救いがあります。
それで私だけよければそれでよしではなく、彼女はどうしてそうしたかったのか彼女の思いを問い尋ねるという歩みも生まれます。それは彼女の思いへの私の判断ではなく、彼女の思いをそもまま聞くという作業です。

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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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質問者からのお礼

吉武文法様
お返事ありがとうございます。
お話を聞いて、自分の事しか考えていなかったと気がつきました。起きた事を良いとか悪いとか決めつけるのではなく、感じたことの原因を見つけてみます。
以前の回答も読み返してみました。どの回答にも再度救われましたが、文法様の実践することについてのお話にはっとしました。やってみようと思います。
友人は隠しておきたいとは言っていたので今は無理に聞くことはやめようと思います。その隠したいというのが私に対しての返事で、私の今できる思いをそのまま聞く作業のような気がします。
ありがとうございました。

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