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好きな人に連絡いれたいけど

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短い間隔で質問してすみません。
誰にも話せなくて一人でモヤモヤしてばっかりで…。話す人も一人いたのですが、その方は今育児でなんも連絡こず、て感じで(>_<)

好きな人と連絡先交換したのですが、交換した理由がシフトのことで何かあるかと思うから、です。
なのに、シフト関係じゃないことの話をいきなりラインした引かれるでしょうか…?
シフト以外のことで話しかけてきて、なんだこいつって思われないでしょうか…。
また、送るとしたら何の話をしようかどうか….。

普段、シフトが被ってても全く話をしない間柄です。
折角交換できたのですが、どうしようどうしようという気持ちで何も動けません。
以前いただいた、告白をするは自分か相手がやめてから告白しようと思っています。
その告白の間までも、何かしらアプローチできたらいいなと思うのですが、変に思われたら嫌だという感じで連絡できずにいます…。
何かお言葉いただけたらと思います。
何回も質問して本当にすみませんが、よろしくおねがいします……(>_<)


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

人生は回転ずし🍣

…ではありませんが、回転ずしみたいな面があります。
近所に「はま寿司」という回転ずし屋がありますが、食べたいと思ってきた🍣🍣🍣が回ってきた瞬間を逃しますと、そのお皿は誰かの手に渡ってしまうのです。マグロ、GONE.
「( ̄∇ ̄;)ハッハッハ、また同じマグロを後で取ればいいじゃないか?」だって?
いいえ。
逃した瞬間、それはもうそれでなくなるのです。
「( ̄∇ ̄;)ハッハッハ、個別にマグロを注文すればいいじゃないか?」ですって?
いいえ。
この世に同じマグロの同じ部位はありません。
マモナクマグロ🐟ガトウチャクシマス♪
最初にきたマグロが一郎兄ちゃん(仮名)だったとします。
同じマグロであっても次に来るのは三郎か五郎かもしれないのです。
マモナクマグロガトウチャクシマス♪オトリワスレニゴチュウイクダサイ♪
もし次にやってきたマグロが一郎兄ちゃん(仮名)だったとしても、次に来るのは同じ部位ではありません。
つまり同じマグロはこの世には仮にクローンであっても別々だということです。
チャンスを逃して後悔している方なんて、このhasunohaサイトの中にもマグロの数ほどおられます。
あとは、時間がもったいないのでこの辺にします。
彼というマグロが誰かの手に渡ってしまう、その前に…。
彼というマグロがカピカピになって「まかない軍艦」になってしまう、その前に…。
あなたの心が凍り付いて冷凍マグロになる前に…。
彼もあなたもピチピチで新鮮な内に。
早く手を伸ばして唾をつけるか、醤油かわさびをつけてパックンチョするべきです。
問題なのは、あなたが今、本当に相手にしているのは「誰なのか」ということです。
目の前で流れてくるタコなのか、イカなのか、イクラなのか。
それらはマグロではありません。
値段がいくらなのか。産地がどこかなのか。カロリーがどのくらいなのか…。
そんなことを考えているうちに、目の前のマグロ、ゴーン。
マモナク「ナミヘイ」が到着します。
お皿を取り損ね続けたら、みな年を取っていくのです。
諸行無常。
マモナク「マスオさん」が到着します。
描いた未来予想図ではない人がレーンで運ばれてくる人生になっているかもしれません。
♪マモナク「アナゴ君」ガトウチャクシマス。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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