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仏様

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今注文していた小さい御仏像が届きました。赤い巾着袋が付いていて八角鏡ミラーステッカーも同封されていました。子年生まれの私なので千手観世音菩薩でした。キリスト教では聖具を購入したら神父様に祝別して頂かないとダメなのですが、御仏像の場合はどうなのでしょうか?主人とワンコ達の為に購入しました。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

本尊

仏教においてはご本尊や仏壇やお墓やを新しく求められた際にお勤めするものとして、宗派により呼び名が異なりますが開眼供養というものがあります。俗に魂入れなどとも言うかもしれません。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%8B%E7%9C%BC%E6%B3%95%E8%A6%81

大事な事はその法要・儀式をとおして区切りをつけるということです。それまでの自分中心の生活から、ご本尊中心の生活にあらためるということです。

つまり、仏像を本尊(私の生きる根本おいて尊いもの)として仰いでいくということです。

よって当然ながら「仏様に頼む」=「仏様に私中心のお願いをする」のではなく、「仏様を頼む」=「仏様の願いを私が聞き、常に自分中心であろうとする私の姿勢が明かされる」ということです。

開眼供養をしたからと言ってその仏像に霊的な力が備わり、それを拝むことによって私の願いや欲望が叶い、拝まないと祟りがおこるというものではありません。それでは偶像崇拝です。仏教は偶像崇拝ではありません。

仏様、お仏像はあくまでも「仏法」=「仏様の教え」の象徴であります。お仏像をご本尊として仰ぐということは仏法を中心・拠り所にして生きてくということです。

自分の都合で拝んだり拝まなかったり、自分の願い事を頼むというものであれば、対象は仏像でも水晶でも何でも変わりありません。結局それでは自分中心の在り方の延長線上に過ぎないからです。

ご主人やワンちゃんの幸せを願うためにお仏像をお求めになられたとしても、それは大変けっこうなことだと思います。
しかし、ご主人やワンちゃんの幸せを「私が」「私の思いで」願っているんだという自らの姿勢が明らかになった時、単なるお仏像がご本尊としてあなたに願いをかけていた仏様であったことに目覚めるかもしれません。
ご主人やワンちゃんの心配をするあなた自身が仏様から心配されているのです。仏様の声=仏法を聞いていきましょう。

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おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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本来なら「開眼法要」が必要ですが・・・。

新しいお仏壇やご本尊(仏像)をお迎えしたら―開眼・入仏・入魂・お性根入れなど、宗派・地域によって言い方は違いますが―お坊様に「お勤め」して頂くのが、普通です。
従って、菩提寺様かご縁のあるお坊様にお願いするのが宜しいかとは思います。
しかし、今回あなたがお迎えになられた「千手観世音菩薩様」は、すでに「開眼法要」が済んでおられるかもしれませんね‥‥。
だとすれば、特別に「お勤め」して頂かなくても宜しいのでは?、と思います。お大事にお参りして下さい。
ちなみに小生の個人的な感想ですが(小生の宗旨の作法とは違いますが・・・)、お参りする時、合掌して「南無千手観世音菩薩」とお唱えすれば宜しいかと・・・。合掌

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おきもち

「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

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薬師観音様にご挨拶した時のことについて

#お参り#仏像・仏様・阿弥陀・観音 初めて相談させて頂きます。 ありがとうございます。 観音様にご挨拶した時の不思議な体験について、何か気づきを得させて頂ければと思い投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。 先日、お客さんから、川見四季桜が綺麗だったよ、栗きんとんが美味しいよと教えて頂き、天気が良い日に母と出かけました。 可愛らしい桜と、綺麗に赤く染った紅葉と、綺麗な和紙の作品と色々見て、有難く大満足な1日でした。 桜と紅葉を楽しんでいたところ、川見薬師寺に続く階段を見かけて、ご挨拶しようと、急な階段でしたので慎重に登って行きました。 やっとの事で登りきると、正面少し奥に、薬師観音像が見えました。 その時、観音様は私から見て右真横を向いていましたが、一瞬で正面を向かれ、目が合いました。 明らかに目の前で起きた事への理解が追いつかず、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかと暫く見つめ合ったまま固まってしまいました。 母に促され、観音様の目の前まで来て、先程のことは一旦離れて、感謝とご挨拶をしました。 先程感じた強い違和感は無いものの、やはり目が合い、微笑んでいるように見えました。 ふと、右真横の目線の先が気になり、確認しに行くと、お寺で飼われている、老犬がいました。 わんちゃんにも挨拶したあと、少し下った先にあるお清めの水が湧き出ている場所に行き、そちらの観音様にご挨拶した際も、やはり目が合い微笑んでいる感じがあり、また呼吸して生きている様に見えました。 その日は1日とても楽しい体験をさせて頂き、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。 加えて、人生で初めての体験、感覚ばかりでしたので、不思議に思っております。 拙い文で申し訳ありません。 改めて、よろしくお願いいたします。

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観音様へのお願い事について

とある観音様が祀られているお寺にお参りに行った際の事ですが。 初めて訪れたお寺でした。 ウロウロしていると案内して下さる方が出てきて、一通り大まかに説明して下さって、そしてお参りする際に、 「~いくらでもお願い事して大丈夫ですよ~」 と、確か言った気がしました。 一瞬「聞き間違えたかな?…」と思ったのですが…。 観音様のご利益を検索すると、 「…あらゆる願い事を叶える、救いの手を差し伸べる、云々…」らしく載っているのを散見できます。 ですが、参拝者がお参りする際、お賽銭(お布施)って、5円、10円、100円…とか小銭をする場合が凡そ大抵だと思います。 知識がある人なら封筒包で千円単位を包む事はあると思いますが、少数かと思います。 ※ちなみに、神社へのお参りの場合、願い事の規模の大小に依ってそれなりの金額をお賽銭すべきであろぅ、といぅ意見/考え方を聞いた事はあります。 いくらでもお願い事して大丈夫…とは言え、小銭程度で5個も10個ものお願い事するって対価に合わないんじゃ…と想像したのですが、 「Q:そもそも観音様ってお賽銭の額が小銭だから云々…に関わらず、人々の願い事を個数に拘らずに聞いてくださる仏様なのだろうか?という素朴な疑問です」 まぁ、他の仏様、如来/菩薩/明王様…の場合はどうなのか、も詳しく存じ上げていませんが。

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温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ