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キスからの告白…遊びなの?

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有り難し有り難し 22

先日、気になっていた彼と初デートをしてきました。
とても楽しくて、気がきいて優しい人だな、いいなと素直に思いました。
人混みがすごく手を繋がれ、「人混みもすごいし離れたら困るし」と…早いなとは思いつつも嬉しくて、そのままデートを楽しみました。
帰り際にゆっくりお話をしてたら、キスをされて「今のは…?」と言うと「好きだよ」と言われ…。
内心、早くないかな?女慣れしてるのかな?本当に好きなのかな?と思いつつ、「付き合ってもないのにキスは…」と言うと「それはごめん…好きです俺と付き合ってください。」と言われ、不安な気持ちと嬉しい気持ちでOKを出しました。
その後は、普通にバイバイをして、「これからよろしくね」と連絡がきて連絡取ってます。あまりにも不安で母や女友達や男友達に相談したりしましたが、「ん〜好きかもしれないし気になってるのは本当でも本気ではないのかね」と言われて、ネットで似たような体験を探しても悪いことしか書いてません。確かに全て早いし遊びかな?と思いますし、信じたい気持ちもあります。久しぶりの恋愛なのですが、以前の恋愛で浮気をされていてもう二度とあんな悲しい気持ちになりたくないと
ネガティブになっています。どうかアドバイスお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

慣れた男にはご用心

先日、西武新宿駅を終電ぎりぎりで帰りました。
終電間際の駅ではみんなブチュブチュしています。
あれって結構面白い光景ですよね。
みんなブチュブチュやっています。
日本の温暖化の原因の一つかもしれません。
えー、なんだか、話だけお伺いいたしますと随分と軽い方ですね。
「え?ああ、うん。好きだよ。そう言っておけばOKかい?」
そんな感じだったのでしょうか。
軽い男なら警戒した方がいいでしょう。
もったいない気がする気持ちに打ち克つ必要があります。
女性は「好き」という言葉や「愛している」という言葉に弱いところがありましょうが、これは「金の貸し借り」と思った方が分かりやすいです。
このように考えましょう。
「愛してる・すき」=今日借りてたお金100万円を返すよ。

つまり変換すると
「君のことを愛しているんだ!」
ということは、
「今日借りていた金を耳をそろえて返すよ!!と言っているだけで返してはくれない状態なのです。
「え?じゃ、そのお金はどこにあるの?」となぜ疑問を持たないのでしょう。
「愛してるんだっ!(返すってば!)」
「証明して。」
「愛してるんだってば!(カネは返さないけど)」

どうでしょうか、彼はあなたに返すべき金を少しでもチラつかせましたか?
返すべきお金もなく、提供するべきものもなしに「愛してるんだ」っていう言葉は「おかしい」のです。
言葉だけでは信じちゃだめです。
「美女と野獣」のようにあなたの好きなことをしてくれる相手がよいでしょう。
行動で示す相手がよいでしょう。
まずは図書館建ててもらうことです。…に相当する行為をガチでその男性が誠実さをもって提供してくれるまでは、チューは許せても絶対に体の関係なんぞ持ってはいけません。持ったら最後、釣った魚に餌やらない男性がほとんどです。ある意味男性は魚肉ソーセージを中心にものを考える生き物です。あなたを本当に大事にする人は、自分の魚肉ソーセージを突き付けてきません。
あなたの恋愛モードと、その男性の単なる男女モードとは温度差を感じます。
女性は男性の言葉は絶対に信じてはいけません。
きれいごとならホストでも言えます。
安い女扱いされないためにも、行動で判断する女性になりましょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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