hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

阿弥陀様にお任せします。

回答数回答 2
有り難し有り難し 29

いつもありがとうございます。

亡くなった愛猫の冥福と極楽浄土での再会を思い、先日からふと思い出した時に「南無阿弥陀仏」を称え始めました。
過去の様々な質問回答を拝見して、「南無阿弥陀仏」には、「阿弥陀様にお任せします」という意味もあると知りました。

「私にはどうしようもできないけれど、阿弥陀様が良いようにしてくださる、お任せしよう」という気持ちでお称えするという事でしょうか。

「良いように」というのは、「自分の望み通り」という意味ではなく、「あるべき姿、自然な形に」という意味です。お任せした結果が、望むようなものではなかったとしても、その結果が一番良い結果だったのだと、自然な流れだったのだと、そのような感覚です。

自分自身の事はもちろんですが、離れて暮らす家族の平穏無事な毎日だったり、友人の抱える苦しみなど、私がどうにかしてあげたくてもできない、コントロールできない事がたくさんあります。その様な事に対して、どのようにお任せしたらよいでしょうか。

「阿弥陀様を思いながら家族の平穏無事な毎日を祈る」と言うより、「家族の毎日を阿弥陀様にお任せします」という感じでしょうか。

焦りや悲しみ、怒りの感情を鎮めたい時なども、お念仏は効くような気がします。似たような質問が過去にもありますが、よろしければ、お話を聞かせください。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

阿弥陀様とひとつになる

我が時宗の開祖、一遍上人が詠まれた歌があります。

「となうれば 仏もわれも なかりけり 南無阿弥陀仏 なむあみだ仏」
南無阿弥陀仏と称えれば、自分と仏の境が無くなる。
すなわち自分が仏であり、仏が自分である、という事です。
自分は仏になったのであるから、南無阿弥陀仏の念仏は、ただ無心に、自然に発しているのみという感覚です。

しかしながら、私たち人間は、そのような感覚をつかむ事は簡単ではありません。
もし、お寺に参拝する機会があれば、この歌を思いだし、阿弥陀様と心を一つにして下さい。
自然な、素直な気持ちになり、念仏がスッと心に沁み込みます。

我々は一般の人なので、一遍上人のように達観できている訳ではありません。
しかし、一瞬感覚を感じるだけでいいのです。
その後の、価値観に若干変化が起きているかも知れません。

猫さんの事は悲しいけれど、それはもう阿弥陀様と縁を結ばれているのだから、その部分では安心だ。
この世で起こり得る、様々な現象も、すべて南無阿弥陀仏。

私もまだ修業の身です。
そのような感覚を、お互い高めていきたいですね。

猫さんのご冥福をお祈りします。

{{count}}
有り難し
おきもち

時宗の寺院で住職をしています。 今の時代、お寺の在り方とは、僧侶とはいっ...
このお坊さんを応援する

お任せなさって下さいね

拝読させて頂きました。
どうぞお念仏おとなえなさって頂き阿弥陀様に全てお願いなさりお任せなさって下さいね。

あなたは必ずそのコと仏様のもとで再会なさることでしょうし、今この瞬間でもそのコとずっとつながっているのです。

生きるものも亡くなったものも仏様はいつでもつないで下さっておられるのです。

そのようなご縁に恵まれて今を生きていかれ、そしてご家族の皆さんと共に日々心を清めて正しく生きて下さいね。

私もあなたと共に日々精進して参ります、そして日々お念仏おとなえさせて頂きます。

どうぞ共に頂きましたご縁に感謝なさり、いつの日にか極楽浄土に往けることを心から信じ念じて阿弥陀様に全てをお願いなさって日々お念仏おとなえいたしましょうね。

そしてお念仏の教えをどうぞ相続なさって下さいね。

光明遍照 十方世界
念仏衆生 摂取不捨

同称十念

南無阿弥陀仏

{{count}}
有り難し
おきもち

Kousyo Kuuyo Azuma
脱サラして10年が経ちました。栃木県佐野市の一向寺に勤めています。(佐野ラ...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

海老原 学善様
ご回答ありがとうございます。海老原様のお話を伺って、今まで極楽浄土から阿弥陀様が見守ってくださっているというイメージだったのが、「念仏を称えることで阿弥陀様と一体になる=自分の中に阿弥陀様が居る」と思ったら、ふっと力が抜けるような不思議な感覚がしました。まずはこの感覚を大切にしてみたいと思います。
質問に「家族の平穏無事な毎日」を願っていると書きました。私の母は気性が荒い方なので、「周りとトラブルになっていないか、また誰かの恨みを買っていないか」等といつも心配しているのですが、自分の中の阿弥陀様を感じた時、ありのままの母を見守れるような気がしました。近いうちにお寺へ伺って、阿弥陀様に手を合わせたいと思っています。ありがとうございました。

Kousyo Kuuyo Azuma 様
いつもあたたかなご回答をありがとうございます。Azuma様に回答をいただいてから、念仏を称えるようになりました。亡くなった愛猫が極楽浄土で穏やかに過ごし見守ってくれるよう、そして私も極楽浄土へ行けるように、という思いで称えていました。
今、生きている上で起こる様々な事に対しても、阿弥陀様に全てお任せする…という感覚がまだ分かりませんが、ご縁に感謝して引き続き念仏をお称えしていきたいと思います。いただいたご縁で身近に感じるようになった阿弥陀様について、もっと知りたいと思い、書籍などを探している所です。まずは念仏の意味を学べるようなものを探してみたいと思います。ありがとうございました。

「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

薬師観音様にご挨拶した時のことについて

#お参り#仏像・仏様・阿弥陀・観音 初めて相談させて頂きます。 ありがとうございます。 観音様にご挨拶した時の不思議な体験について、何か気づきを得させて頂ければと思い投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。 先日、お客さんから、川見四季桜が綺麗だったよ、栗きんとんが美味しいよと教えて頂き、天気が良い日に母と出かけました。 可愛らしい桜と、綺麗に赤く染った紅葉と、綺麗な和紙の作品と色々見て、有難く大満足な1日でした。 桜と紅葉を楽しんでいたところ、川見薬師寺に続く階段を見かけて、ご挨拶しようと、急な階段でしたので慎重に登って行きました。 やっとの事で登りきると、正面少し奥に、薬師観音像が見えました。 その時、観音様は私から見て右真横を向いていましたが、一瞬で正面を向かれ、目が合いました。 明らかに目の前で起きた事への理解が追いつかず、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかと暫く見つめ合ったまま固まってしまいました。 母に促され、観音様の目の前まで来て、先程のことは一旦離れて、感謝とご挨拶をしました。 先程感じた強い違和感は無いものの、やはり目が合い、微笑んでいるように見えました。 ふと、右真横の目線の先が気になり、確認しに行くと、お寺で飼われている、老犬がいました。 わんちゃんにも挨拶したあと、少し下った先にあるお清めの水が湧き出ている場所に行き、そちらの観音様にご挨拶した際も、やはり目が合い微笑んでいる感じがあり、また呼吸して生きている様に見えました。 その日は1日とても楽しい体験をさせて頂き、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。 加えて、人生で初めての体験、感覚ばかりでしたので、不思議に思っております。 拙い文で申し訳ありません。 改めて、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 6
回答数回答 1

観音様へのお願い事について

とある観音様が祀られているお寺にお参りに行った際の事ですが。 初めて訪れたお寺でした。 ウロウロしていると案内して下さる方が出てきて、一通り大まかに説明して下さって、そしてお参りする際に、 「~いくらでもお願い事して大丈夫ですよ~」 と、確か言った気がしました。 一瞬「聞き間違えたかな?…」と思ったのですが…。 観音様のご利益を検索すると、 「…あらゆる願い事を叶える、救いの手を差し伸べる、云々…」らしく載っているのを散見できます。 ですが、参拝者がお参りする際、お賽銭(お布施)って、5円、10円、100円…とか小銭をする場合が凡そ大抵だと思います。 知識がある人なら封筒包で千円単位を包む事はあると思いますが、少数かと思います。 ※ちなみに、神社へのお参りの場合、願い事の規模の大小に依ってそれなりの金額をお賽銭すべきであろぅ、といぅ意見/考え方を聞いた事はあります。 いくらでもお願い事して大丈夫…とは言え、小銭程度で5個も10個ものお願い事するって対価に合わないんじゃ…と想像したのですが、 「Q:そもそも観音様ってお賽銭の額が小銭だから云々…に関わらず、人々の願い事を個数に拘らずに聞いてくださる仏様なのだろうか?という素朴な疑問です」 まぁ、他の仏様、如来/菩薩/明王様…の場合はどうなのか、も詳しく存じ上げていませんが。

有り難し有り難し 15
回答数回答 2

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ