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好きな人が2人

回答数回答 3
有り難し有り難し 35

初恋の人と今連絡を取っています。
2〜3年毎に連絡来る形で、恋愛相談したり仕事の相談をしています。
今でも初恋の人は気になってはいます。

少し前に結婚を前提にお付き合いをしていた彼(元カレ)とお別れしました。
初恋の人のことも気になるし、元カレのことも気になってしまったからです。

初恋の人は、何年かに数回メールや電話をする程度で、良いことも悪いことも聞いてくれます。最後まで話も聞いてくれるし、涙を流してもそばで話を聞いてくれました。
元カレは、涙を見るのは嫌みたいで、泣くときはいつも一人で泣いてました。話を最後まで聞いてくれるタイプではなく、アドバイスを合間に挟んできます。

話を最後まで聞いてくれる初恋の人と結婚を前提にお付き合いしていた彼と、どちらが好きなのか分からなくなりました。
結婚を前提にお付き合いしていた彼とも連絡を取っています。
気持ちが落ち着いたら戻ってきてほしいと。
別れてからも恋人のようにボディタッチもあります。

初恋の人は相談したいことあれば相談しておいでとのことで、その優しさに今でも惹かれています。でも会うたびにボディタッチがあるので断れない自分が居るのもあります。

どのように気持ちを持てば良いのか、どちらとも連絡を取っている私の行動は間違っているのでしょうか?
まとまりのない文章ですいません。ぜひ、よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 3件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

性(さが)は真実の愛ではない

今後のこともお考えになって、将来結婚してからも浮気心が正当化されないためにも早めにそういう心情は自分のことですから早めにボコボコにして打ち砕いておくに越したことはありません。
人間キレイに自分の情愛の心を正当化したくなるものですが、あかんものはあきまへん。
そりゃ埼玉県にお富山県にも北海道にも九州にも東京にも住みたいとしても、この身は一つしかありません。
埼玉県に住むと言いながらも、北海道に行ってたら埼玉県民を裏切ることになりましょう。
あなたが立って息をしているところは一か所しかないはずです。
むかし、そこの県に行ったなぁ、くらいで今自分がいるところはどこかよく確認なさってください。
簡単に申し上げれば「人の尊厳を奪わない」ということが答えです。
最終的にあなたが選んで「この人こそ運命の人」と確信して結婚した人が結婚してからも「あなたと同じようなこと」をしていたら、あなたを軽視することになる。
あなたは今それをしているのに、ブチ切れるでしょう。ムキ―!
自分がされて嫌なことを自分がやって、自分はやっているのはOKという心理は世の男性たちが不倫している精神を責められませんし、実に家庭的でありません。
厳しく言えば情欲的です。
恋愛的であるべからず。
家庭的であるべきです。
浮ついた心はその刺激を楽しんだり、陶酔しているに過ぎないものです。
あなたがいつか自分の子供に男の子がいて、そのお子さんの彼女が結婚間際に、他にも男がいてイイ感じで天秤かけてふらついていて「どっちにしよ~♡」とかほざいていたら母親としても、テメー(# ゚Д゚)うちの息子をたぶらかすんじゃねーよ!あなたもこんな女は別れなさい!とどっちもどつきたくなると思いますよ。
自分が今何をしているか、他者の立場で眺めてみましょう。

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おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

先ずはあなた自身が彼氏達に頼らずに生きて行くように精神的に自立することが大切だと思います。
お釈迦様は言いました。
「自分が頼るべきは自分である。
どうして他者が頼りになるだろうか。
よく整えられた自分こそ頼りになるのである。
だからこそ、自分をしっかり整えなさい。」
自分を整えるとは、常に冷静に落ち着いて、物事を理論的に考えることと私は思います。
そのことを頭の片隅に置いて、仕事に、生活に冷静に頑張ってくださいね。

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おきもち

私は浄土宗の坊さんです。 少しでも何か参考になればと思って回答していますが、無知未熟ゆえに質問を読ませていただくことしかできないことも多々ありますがお許しください。 回答は私個人の意見や解釈もあり、場合によっては浄土宗の教義とは少し異なることもあるということをご了承ください。 また、寺の紹介ページに電話相談についても紹介していますのでどなたでも気兼ねなくご利用ください。 ハスノハのお坊さんがもっと増えますように。 合掌 南無阿弥陀仏

自然な感情を認め信じる

自分の話を聞いてもらう。
それは、人として誰しも心地よいものです。
初恋の人が気になってしまうのは当然の事でしょう。

比べてはいけないとは言いますが、元カレさんがきぃさんを受け止めてくれなかった事で、気持ちが初恋の人に行ってしまったのも、当然の流れです。
しかし、元彼さんの事も好きだったのでしょう。
一旦は将来を約束した人なのですから。

きぃさんの気持ちが、恋の狭間で揺れてしまうのは、悪い事ではないと私は思います。
これはあなたの問題です。
あなたが苦しいのであって、元カレ、初恋の人、二人の領域ではありません。

罪悪感を感じておられますが・・・
今は自分を認め、二人と連絡を取り合いながら、自然なご自身の気持ちと向き合われてはいかがですか?
その過程で、答えが見つかるのではないかと私は思います。

きぃさんの取られている行動は、決して道徳に反する行為ではありません。
少なくとも私は、そう思います。

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おきもち

時宗の寺院で住職をしています。 今の時代、お寺の在り方とは、僧侶とはいったい何か?と、考えています。 僧侶としての根本は、朝のお勤めだと考えております。 週に2回、お寺で空手教室を開いております。 近隣の子供たちに、礼儀作法を伝える。 これも寺院の持つ役割である、地域貢献に繋がると、少なくとも私はそう思い、精進しております。

質問者からのお礼

貴重なお言葉、ありがとうございました。
ここ数年ずっと考えて来たことでしたので、心が少し軽くなりました。

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ