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この心の苦しみは楽になりますか

回答数回答 2
有り難し有り難し 21

初めて、質問させて頂きます。
今とても、心が苦しいです。とても強い不安や悩みで頭が一杯になっている状態です。一番の不安は、人と上手く関わっていけるかです。

性格上、人と話す時に、緊張しやすいです。無意識に上手く話そうとして、言葉が詰まってしまうこともあります。

人に良く思われたいと思い過ぎているせいなのではないかと反省しています。他にも苦しみの原因があるように感じるのですが、恥ずかしながら見えておりません。

時間はかかっても、自分と向き合う心構えは、出来ております。

少しでも、この苦しみを楽にする方法がありましたら、ご回答を宜しくお願い致します。
最後まで読んで頂き有り難うございます。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

自分としゃべっちょるからいけない

ボクシングで「いいか、よく聞け。さっきからお前が殴っているのはレフェリーだ。」
という爆笑ネタがありました。
あなたはあるものにおびえています。
あなたが怖れている、人と関わっていくという事は、まだ始まってもいない事で悩んでいるという事をまず自覚してください。
それは自分の想念なのです。
ボクサーが大事な試合を控えてシャドーボクシングをする。
シャドーボクシングはあくまでシャドーボクシングであって、実物を相手にしていない。
あなたが相手にしているのは、自分の想念なのです。
まだ、その相手と会話も始まっていない。
つまりあなたは現実派ではなく、インナー派、内向型なのです。
外に出てきて下さい。
現実の相手と、リアルタイムで、現場で話し合ってからアレコレ思ってください。
そんなにうまいことやろうとしなくていいのです。
自分に言い聞かせてください。
「いいか、俺が相手にしていたのは、自分の相手に対する想念だ。」と。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

楽になります

僕は人見知りで、ことばが直ぐに出ず、どもりです。人の顔を見ることが苦手です。

でもお坊さんだから人前でお話します。言葉につまりながら、どもりながら。必死でお話します。明るく楽しく話すことは無理です。眉間にシワよせ全力でお話する、これしかできません。

自分を飾らないのが一番。
男が得意気にペラペラと軽薄そうにしゃべるより
要で言う一言の重みを大切にしましょう。

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有り難し
おきもち

「平等」という嘘を信じるな。 仏はこの世が不平等であり辛苦から絶対に逃れることの出来ない世界であるという。絶対に逃れることが出来ないにも関わらず、「平等」によって或いは「楽」によって人間が救われるというのは矛盾である。 不平等で辛苦極まりないこの世をあきらめ死後に救いを求めるのも人間否定そのものでお話にならない。 平等というのは自分が助かりたいという思いから生まれた自己優先の魔界の教えである。仏教はそうではない。 人を助けることを優先にすれば自分も救われるという考えだ。 人のために活きることで不平等が不平等でなくなり、辛苦が辛苦とも感じなくなるのである。 世のため人のために働いてみる。 「有り難う」 その言葉で、人はそれまでの苦労が苦でなくなるのである。 これが仏教の真の教えである。 生温い癒やしなどまったく意味がない。 積極的に人生を切り開くための教えに耳を傾けるべきである。 お寺やこのようなサイトの利用は一回にとどめなければならない。何度も相談するということは、まったく良くない傾向である。 お坊さんから聴く「仏の教え」によって生きる力を得て、二度とお寺に相談する必要がない幸せな人生を手に入れて欲しい。 本来ならば実際にお寺に足を運び相談すべきである。ここでご縁のあったお寺さんに必ず足を運ぶべき。それが億劫ならばその程度の悩みだということ。本当に切羽詰まっている人は必ずお寺に足を運ぶ。 その観点からご自身の悩みがどの程度のものなのかを推し量ってみることも有効であろう。 それと仏の教えが必要のない質問は無視する。なんでも応えてくれると思ったら大間違いだ。

煩悩スッキリコラムまとめ