疑う自分がつらい
とてもつかみどころのない、ごちゃごちゃとしたお話ですが、ご容赦ください。
わたしは、8年ほど前に親友を失いました。わたしが待ち合わせに3時間近く遅れてしまったのがきっかけです。難関大学の受験で多忙を極め、精神的にもギリギリだった彼女を思いやることを忘れていた、わたしが悪かったのです。きっと、彼女はわたしについて他にも不満があったのでしょう。それが、遅刻で一気に爆発したのだと思います。
わたしが悪かった。何も文句は言えない。彼女を恨んだり憎んだりしてはいけない。そう、心から思いたいのに、今、わたしは彼女にあらぬ疑いをかけてしまっています。
彼女とわたしの共通の友人が、彼女の側に奪われてしまうのではないか、という疑いです。
保育園からの付き合いでしたが、彼女は昔から人望のある優等生でした。それに引きかえ、わたしは勉強は出来るけれどちょっと変わった性格だという評判でした。彼女は中高一貫の国立大の附属校に進み、ハイレベルな学生生活を送りました。一方、わたしは公立の中学校に進んで不登校になり、高校でも留年しました。それでも、彼女は仲良くしてくれました。劣等感はずっとありましたが、立派な彼女に親友だと思ってもらえることは誇らしかったし、ただ純粋に、一緒に居て楽しかったのです。
彼女は順当に大学受験の年を迎えましたが、わたしは留年してもう一度高校2年になりました。その春に、遅刻事件が起きて、わたしは彼女を失いました。その後、彼女は第一志望の国立には入れなかったものの、名門私大に特待生として入学したようです。わたしは、地元のまずまずの私大を6年半で卒業しました。
まとめますと、
彼女は昔から優等生で、素晴らしい経歴で、遅刻事件の被害者。
わたしは昔から変わり者で、ぱっとしない経歴で、遅刻事件の加害者。
ということになります。他の友人が、彼女の側に付いても仕方のないことです。そうなっても、わたしは、潔く諦めるべきです。
しかし、実際のところ、わたしにはその覚悟ができていません。他の友人が離れて行けば、きっと彼女を恨んでしまいます。
彼女にお門違いの恨みを抱くことなく、自分の過ちの報いを受け入れるには、どうすれば良いでしょうか。
お智慧をお貸しください。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
質問者からのお礼
鳳林寺 光禪様
こんなに早くにお智慧を下さいまして、ありがとうございます。確かに、想像にすぎないことで苦しむのは、時間を粗末にしていることにもなりますし、お寺様に言わせれば、「煩悩」そのものですよね。愚かなことだと、改めて分かりました。ありがとうございます。
ただ、もうわたしには「想像」して苦しむことしかできないのです。迷惑をかけて傷つけてしまった彼女には、そのときも含めて二度ほど謝ったのですが、「あのときのことは思い出したくない」「あまり覚えていないので、謝られても...」という反応でした。「親友」であった彼女に、「思い出したくない」ことをこれ以上思い出してもらうことはとてもできません。関係は、もう戻りも進みもしないと思います。ですので、わたしの「心」をどうにかするしかありません。
このことにはっきり気づくことができ、お智慧をいただけて本当に良かったと思います。ご縁とお心に深く感謝いたします。