わたしに足りないものは
もともと不器用で、人が当たり前にできてることが当たり前にできない。普通の人間に必死に擬態している。そんな感覚で生きてきました。
何をするにしても、人より頑張らなければならない。そして、頑張りすぎて精神を崩してしまう。そんなこともありました。
自分に優しく接しよう。100点でなくていい。頑張るけど、頑張りすぎないようにしよう。できない所も可愛い部分だ。
そう思うことで、自分の心は落ち着き、少し自分のことを認めてあげられるようになりました。
ですが、お付き合いしてる相手には「もっと綺麗に掃除をしてほしい」「〜ができてない。」そんな風に言われることがあります。職場でも始業時間ぎりぎりにしか出勤できなかったり、求められてる以上のことができなかったりして、怠惰に見られてしまい注意されることがあります。
相手が求めているラインに達することができず、迷惑をかけてしまって、がっかりされ、こちらも気力を削がれてしまい、「わたしはやっぱり何もできない、、」と悪循環に陥ってしまいます。頑張りたいのに頑張れない、そんな自分も嫌になってしまいます。
今のわたしに足りないものや必要なものってなんなのでしょうか。教えていただければ幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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知足
足りないものはありませんよ。
人は生まれながらに不足なんてないのです。
仮に腕がなくても不足ではないでしょう。
障害という名前がついたら足りないものがあるのでしょうか?
私はそうではないと思います。周囲の期待に応えられなくてもそれはそれ。相手の問題を受け入れる必要はないのです。勝手に期待して勝手にイライラしているだけでしょ^_^
自分の人生は自分以外には生きられないのだからたりないものなんてないのです。ただできないこと、苦手なことはご自身で把握していた方が良いでしょう。事前に「私は〇〇がにがてなんです」と説明できますからね。
こうあるべきという思想は人を苦しめます。もっと言えば自分自身を苦しめます。
ありのままの自分が全て、それで完璧なのです。
努力したらそれが完璧、しなくても完璧。
それが仏の働きです。
人と同じにしなくてよい。生きているだけで十分周りを幸せにできますよ。存在が大切なのです。
質問者からのお礼
ありがとうございます。
ありのままの自分でいい、温かいお言葉にホッとしました。
みんなお互いに受け入れられるようになったらいいのに、と思ってしまう自分も周りに期待をしてしまってるのだなと感じます。
できない自分を受け入れることと
そんな自分を周りに受け入れてもらえるかは別物として考える必要があるのかなと考えることができました。
貴重なお話ありがとうございました。