幸せになるために努力しても良いのでしょうか
私には幸せになる権利がありません。
今まで沢山の人を傷付けてきましたし、嘘も沢山つきました。
そんな私が幸せな人生を送るのは筋違いだと思います。
しかし幸せを手にしない人生を送るのはとても難しいです。
なぜならあらゆる行動(努力)が幸せに繋がっているからです。
例えば、就職活動です。就職は人生における幸福だと思います。
私は就職活動をしています。そして、より良い会社に入るために勉強をしています。
つまり、幸せになるために努力してしまっているのです。
自分には幸せになる権利がないと言いながらも、私は幸せになろうとしています。
この矛盾を解決できません。
私は幸せになるために努力しても良いのでしょうか。
乱文失礼致しました。ご回答いただけましたら幸いです。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
幸せになるための修行は懺悔からはじまる
私たち真言宗の僧侶がお参りするときは、まずは「懺悔文」をお参りします。
我昔所造諸悪業(がしゃくしょぞうしょあくごう)
皆由無始貪瞋癡(かいゆうむしとんじんち)
従身語意之所生(じゅうしんごいししょしょう)
一切我今皆懺悔(いっさいがこんかいさんげ)
われ昔より、造る所のもろもろの悪業は
皆無始の貪瞋癡に由る、身語意より生ずる所なり、
われ今一切をみな懺悔したてまつる
私が昔から作ってきた色々な悪い行いは、
遠い過去から、知らず知らず積み上げてきた、貪(むさぼり)瞋(いかり)癡(おろかさ)の三毒によるものです。
それは、体で行った・話した・思ったという三つの業(行為)から生まれたのです。
私は今、それら全てを懺悔します。
という意味です。
わたしたちは、意識的にも無意識でも、身体と言葉と想いで様々な業(おこない)をなします。
良い行いも悪い行いも私たちの心に降り積もります。
私たちが生きているうえで、そういった行いをしてしまうのは仕方のないことです。
しかし、それを自覚せず、むさぼりと怒りと無知のまま、ありのままに生きているだけでは動物と同じです。
私たちは、行いを反省し、改善することができるのです。
そして、誰しもが幸せを求めています。お釈迦さんだって弘法大師だって、幸せになりたいから修行したのです。
しかし、修行するには私たちは無意識に罪を行いすぎている。
だから、懺悔するのです。
修行の根源は、懺悔です。自分の中で、無視できない悩みがあるから、懺悔する。その悩みは自分自身の業から生まれてくるからです。
あらゆる行動が、幸せになるためにある・・・というあなたの言葉、しびれました。
ここはお坊さんが答えるサイトですが、あなたの言葉に僕がハッとしました。笑
そうですね、弘法大師も、「すべての行いは菩薩の境地である」と説いた理趣経を持ち帰りました。
すべてが幸せになるための行為ならば、あなたの懺悔こそ、その境地でしょう。
上記に書いた、懺悔文。もし悩みがあったら、心の中でこの文を読んでください。
仏様の前でお参りするときも、読んでください。
きっと心がすっとするはずです。
質問者からのお礼
ご回答ありがとうございました。
幸せを求めるのはごく当たり前の事なのですね。不悪口院 恵成先生の御言葉に救われました。
懺悔文、大変勉強になりました。
日々自分の業を見つめ直し、人生と向き合っていきたいと思います。
本当にありがとうございます。