依存する心でしょうか
親しくしてくださる人に期待してしまいます。
例えばメールの返信が欲しいとか、現在具合が悪く休職中なのですがその事について気持ちの面だけでも寄り添ってもらいたいとか。そんな事を望んだ所で叶う訳もないのはわかっているのですが。
結婚していた時から夫に頼れず色々と1人でこなして来ましたが、本当はわかち合い生きていくような人生を送りたかった。
束縛が激しく自由が欲しいと思ってました。自由になってみれば少しの束縛が欲しいと思う。なんて強欲なのだろうと思います。
この依存、執着、期待してしまう気持ちをどうすれば捨てられるでしょうか。もういらないのです。
どうかよろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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蓮の花
ご相談拝読しました。
>束縛が激しく自由が欲しいと思ってました。自由になってみれば少しの束縛が欲しいと思う。
この一文に深く頷かされます。人間の生き様というのはこのようなものですね。お経にも「何かがなければあってほしいと憂い、あればあったであることに憂う。そして満足することがない。」という内容が説かれています。まさに人間の現実がお経に言い当てられるというものです。
お経、つまり教えは鏡です。自分の目では見れない自分の姿を見せ、自覚させてくれるのが仏法という教えであります。
「依存、執着、期待してしまう気持ちはもういらない、捨てたい」というのも執着です。私たちの心にどこからどこまでは執着でどこからどこまではそうじゃないと分けられるものはありません。
全てが執着です。人間は見たもの、聞いたもの、感じたものに執着するのです。でもこれが生きるという事です。そうやって色んなものに執着し、モヤモヤ・ドロドロを引っ提げて生きていくのです。
このサイトの名は「hasunoha」です。蓮は仏法の象徴ですが、泥の中にあって美しい花を咲かせます。泥というのはわたしたちの悩みや苦しみの象徴です。悩みや苦しみのただ中にあって人は美しい花を咲かせることができるのです。
蓮は泥のなかにあって泥にそまらず泥を排除して咲くのではありません。泥にまみれて泥を栄養として花を咲かせます。
悩み苦しみこそが私たちの人生を花開かせるのです。とうこさんの依存・執着・期待もまた栄養です。
仏法に自分を尋ね、その教えの鏡で自分の姿を見るならば依存・執着・期待して悩み苦しむ自分の姿が明らかになります。しかし明らかになったからといって依存・執着・期待がなくなるわけではありません。
依存・執着・期待する自分を知り、依存・執着・期待するままに生きていくのです。仏法は何か立派なものになるイメージが強いかもしれませんが自らの愚かさに気づく教えです。釈尊は苦しむ人々に対し法を説きました。苦しみを活かし花を咲かせる道があるのです。
>本当はわかち合い生きていくような人生を送りたかった。
もうすでに苦しみの中に花のつぼみが膨らんでいるのではないでしょうか?法の鏡に自分の姿を尋ねながら泥の中を歩んで生きましょう。
「ああ、また依存・執着・期待していたなあ」と頷きながら。
南無阿弥陀仏
合掌
質問者からのお礼
ありがたいお言葉に救われる思いです。何よりも真摯に受け止めてくださった事がうれしくありがたく、温かい気持ちになりました。
依存、期待、執着を捨てたいと思う事が執着とは、全然思いもよらない事でした。執着を無くすなど到底出来る事ではありませんね。
期待、執着している時はガサガサした気持ちです。それらの気持ちが暴れないように優しく寄り添い共に生きて行きます。
泥の中に咲く蓮、つぼみが膨らんでいるとおっしゃっていただけた。涙が溢れます。わかち合い生きていく、最近苦しい想いの中でやっと見つけた私の本当の気持ちです。強がりや素直になれない気持ちの奥の方にありました。
自分をより苦しめていたのは自分でした。
泥の中に蓮を咲かせられるように、今の気持ちを忘れずに生きていきたいと思います。
本当にありがとうございました。