因縁による苦しみについて
見えない力について苦しんだり、「因縁」という言葉を聞いて恐怖感を抱いたりする人は多いと思います。しかし、科学ではまだ議論されていないものはたくさんあるものの、ある程度現代科学で説明できるものや仮説を立てられるものがあるのではないかと考えています。今までの経験から、以下の考えを持っているのですが、皆さんはどのようにお考えになりますか?
今まで学校や文献から学んだことから、「因縁」について、私なりに3つに整理しました。
(1)身体的因縁(=遺伝)
遺伝については、中学校や高校で、メンデルの法則などとしてその基礎を学びます。大学では、物質面まで踏み込んで学びます。そのことから、社会生活を送るのに障害となるものはないのではないかと思っています。私は医学者ではないので、詳細は医学の専門家に任せたいと思います。ただ、できないことを「遺伝だから」とどうしようもないことと片付けてしまう人が多いのが残念です。
(2)精神的因縁(=家庭教育)
私の世代では、家訓があるというのはあまり聞かなくなりました。生きる知恵であったり、行動規準であったりします。ただ、その価値観をうまく伝達できなくなってしまっていると感じます。人間の価値観は、両親から何気なく教育を受けて受け継いでいます。今、その価値観が学歴至上主義になっていることが気になります。「何を学んだか」が重要なはずなのに、「どこの大学を出たか」に注目している人が多いように感じます。
また、寂しさや愛情不足も多いのではないかと思います。
歪んだ価値観や認知によって、精神疾患を抱えたり、他人を傷つけたりしているのではないかと思います。これは心理学や教育学の専門家が考えることだと思いますが、仏教的にはどのように考えますか?
(3)他者との関係
他者との関わりの中で、様々なことを学ぶと思います。これも、人格形成のひとつだと思います。
病気や不運が起こったときに、お金を積んで神頼みをしたり、人のせいにしたりする人が多くなったのかなと思います。神頼みをするのは悪いことではありません。お金を添えて感謝の気持ちを述べたり、祈祷を受けたり、法話を聞いたりして、不安やストレスは軽くなります。他者ができるのはここまでで、根本の自己の課題は自己解決を図るしかないと思っています。供養もその一つで、ご先祖様を許す修行だと思います。
我が強い。保身のために、人を妬んだり、羨んだり、言い訳をしたりする。気持ちに余裕がなくなると、怒ってしまう。愚痴を言ってしまう。過去に学んだことに執着してしまう。未来に対して余計な不安がある。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
因縁
因縁という言葉は一般的には確かに悪い意味で使われることが多いですよね。
仏教では、ここに善悪はありません。仏様の働き、仏性といってもいいのかもしれません。「物事に触れたらそのようになる」ということ。
つまり、家にいれば家にいるようになるし、外に出かければそのようになる。この体のあるところでその環境と触れて体全体でそうなっているということでしょう。
科学的に研究し、原因を探ると色々あるのでしょうが、感覚的に事実そうなっているということを自らわかればそれで問題ないのです。
時間で言えば「今」しかない事実
場所で言えば「ここ」しかない事実
この体を使い五感(眼耳鼻舌身)で感じている事実
これは常に環境と共変化していることです。
因縁とはそうしたことなのでしょう。
遺伝とかいうことが考えや理論の上ではあるのでしょうが、今この体では一切意識することはないということもあります。
質問者からのお礼
〉邦元 様
ご回答、ありがとうございました。
五感で感じている事実を認識する余裕が、現代社会は少なくなっているように感じます。
私は、心身の調子を崩し、仕事を休んでいます。消化器疾患で入院したこともあります。そのような中で、五感で感じる重要さと、今ここに注目すると、幸せに感じることが分かりました。入院中は、三分粥の状態でも、20分ぐらい時間をかけて食べました。背筋を伸ばし、食べ物が胃に入っていくのを感じる。腸が再び詰まるのが怖くて、確認しながら食べてたのですが、食のありがたみや命をいただいているという感覚が芽生え、幸せな気分を感じながら、食べていました。
今、幼稚園とかで、「給食費を払っているのだから、『いただきます』というのはおかしい」という保護者がいると聞いたことがあります。命をいただいているから、自分は生きていける。そういうことを五感で感じ取れるような生活を取り戻していけたらと思います。