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馬頭観音さんは

回答数回答 1
有り難し有り難し 21

みなさま、おはようございます。

馬頭観音さんは観音さまなのに、何故憤怒のお顔をされているのでしょうか。
『明王さんかな?』と思ってみていると、頭にお馬さんがいて『あ、馬頭観音さんだ』と、なることが多いです。

本やネットで調べてみたところ、密教では『馬頭明王と呼ばれる』とあり、なんだか混乱してきました。

菩提寺以外にも、お寺さんに行くのが好きで(落ち着き心癒やされます)仏さんに手を合わせ唱名を唱えてから『いつもありがとうございます』と感謝しています。

それぞれお参りしたお寺さんで仏さんに出会った時に、何の仏像なのかわかると仏像の働きやそのお寺さんがどういう考え方を大事にしているか等、少しは見えてくる様な気がして、知りたいと思いました。

どうぞ、よろしくお願いいたします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

怒りも憤怒も仏の慈悲ぢゃい

世の中がド悪党ばっかりだったとします。
家族を守るにはド悪党よりも強くなけりゃいけないのです。
何でもかんでもにこやかじゃ相手にゃ通用しねーだ。
子どもが危ない目に遭っている時に親は子供を守るために優しい顔をしているでしょうか。
馬頭観音様は私の地元では農耕の守り本尊様として祀られています。
観音様の慈悲の働き、救いの働き、助けの働きとは人間ばかりではありません。
お馬さんは歴史の中で人間を助けてくれました。
埼玉県の川越市の中福には三国塚馬頭観音が祀られています。
昔のお殿様の愛馬を川越の人たちがよく面倒をみてあげたそうです。そして亡くなった時もねんごろに弔ってあげました。時の権力者はその愛馬の為に尽くしてくれた川越の地を開墾しました。現在でも日本の農業を支える重要な拠点となっています。
縁が縁を生み、新たな縁を作って、良い結果をもたらす。
観音様の救いとは人間の世界においては人間が喜ばしくなるように心を向けるはたらきです。人間の歴史はどんな困難もより良い心に向けるべく働きかけてきた仏縁、法縁、人の縁があります。
あなたが諸国を尋ねられるなら、多くの仏像を拝むことの中で自身も他者も喜ばしくなるように心を導いていくと良いでしょう。
そして生きた仏を求め、生身の人間で生身の人間が本当に人を救いに導いてくれる仏、人間を求めると良いでしょう。人生とは自らが仏になることが大切です。仏心、悟り、涅槃、智慧、般若、彼岸、、、皆あなたが仏さまになるためのものなのです。
外の仏を拝むでなし内なる仏を自覚する為に外の仏を拝むのである。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

覚元さま
ご回答ありがとうございます。また、お礼が遅くなり失礼いたしました。申し訳ありません。
ご回答、繰り返し拝読させていただきました。
憤怒の表情もまた、慈悲であること、馬頭観音さんが何を守る仏様かということ、承知しております。仏像マニアではなく、ただ興味本位で寺巡りをしている訳でもございません。
覚元さまが、最後文にて教えてくださったことを心掛ける日々でございます。
今回、ただただシンプルに何故馬頭観音さんが憤怒の表情なのかという由縁を知りたいと思い質問させていただきました。
例えば不動明王さんは、信心していない者、悪業を働いた者であろうとも、憤怒し、恐ろしい形相と武器を使って強引にでも俗世の煩悩にまみれた人々を救おうとするお姿であると教えていただいたことがあります。(ディティールや表現の違いがあれば申し訳ありません。)
馬頭観音さんも、不動明王さんと同じ由縁という理解でよいでしょうか。

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