hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

神様の存在についての確信

回答数回答 1
有り難し有り難し 8

初めまして。私は無宗教だと思ってはいますが、日本に生まれたため、儒教、禅、老子、仏教などの影響を強く受けており、また、ラルフ・ワルド・エマーソンも尊敬しているため、影響を受けています。しかしながら、色即是空、空即是色が私が認知できる世界の結論だと思っています。(演繹と帰納しか出来ない我々、人類の限界)

さて、本題ですが、私は、神様の存在を確信出来る体験をさせて頂きました。神様は、心にいらっしゃるという話を巷で良くききますが、まさにその通りで、メタ認知をこえて、確信できる出来事を起こしてくださいました。自分の存在のちっぽけさ、明智に対しての答えをそれなりに教えて頂いた気がします。そこで、質問なのですが、皆様は神様、あるいは仏様を、存在すると確信出来る体験などはなさっているのでしょうか?


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏様の存在論-仏様として見出す

神様については私はわかりませんが、あらゆるモノ・コトが「因(原因)・縁(条件)・果(結果)」による相互依存で仮に成立していると見る仏教的視点に照らすならば、運命の支配者や、世界の創造主のような存在としての神は存在しないというのが私見です。

では仏様はどうかというと、歴史上に実際に存在したのはお釈迦様ことゴータマ・シッダッタです。
私たちと同じ人間であるお釈迦様は覚りを開いて仏様になったわけですが、覚りとは目覚めです。お釈迦様は何か新しい概念を作り出して仏様になったとのではなく、お釈迦様が生まれる以前からあった真理(道理・法則)に目覚めて仏様になったのです。

そこで、お釈迦様をして仏様たらしめたものがあるという説が展開されていきます。三身(さんじん)説です。

法身:姿形を超えた真理そのものである仏身
報身:真理が慈悲として働き出る能動性・精神性に報いて得られた仏身
応身:私たちの能力や状況に応じて仮に現れた仏身

大乗仏教になると様々な経典に種々の超人的な仏様の存在が説かれますが、これはお釈迦様の教えによって真理に目覚めた仏弟子たちが、お釈迦様をしてお釈迦様たらしめた法身や報身について、説話(物語・神話)的表現をもって編纂・作成した経典であると思われます。
歴史的事実としてあった出来事ではなく、そこにそれぞれが出会った教えを表現したのですね。

ですから、たとえば宇宙の真理そのものとしての大日如来や、全ての生きとし生けるものを極楽浄土に往生させて救うと誓った阿弥陀如来などの仏様は、その仏様が実体として現実にこの世界に存在するのではなく、そういう「はたらき」をそれらの「仏様」として見出し、称し、そして敬っていくという存在論になります。その存在は歴史的事実ではなく「(私を真理に目覚めさせる)はたらきとして事実」です。

だから一冊の本や、私の嫌いな人や、私の大切な人の死という出来事や…まあ、あらゆるモノ・コトにおいてそこに仏様としてのはたらきを見出したのなら、「私にとって」という意味で事実として仏様は存在します。

その時大事なのはあくまでも私の側の体験や心情・感情ではなく私を目覚めさせた「はたらき」が仏様だということです。
私の側の体験や心情・感情は縁によって変わるウサンクサイものであり、確かな拠り所とはならないと浄土真宗では考えます。

{{count}}
有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
このお坊さんを応援する

質問者からのお礼

真摯に回答して頂きまして、ありがとうございます。亡くなった祖父が、浄土真宗ですので何かの縁を感じております。
浄土真宗の視点で語って頂き、ありがとうございます。

「はたらき」を行う者、「はたらき」だと感じさせる者、そう思う様に心を動かす者こそが、神様だと思っています。
私の体験では、自分の思い、考えと思っていたのは自分ではなく、良い思いも、悪い思いも、多くの心の動きを神様によって動かされていたという事実を教えて頂きました。ひらめきや、虫の知らせなどはまさに神様による働きだと確信しています。できる事は、意志を持って”選択”出来る事だと思っております。

※仏様と書くと、ブッダさんが出てきてしまう様なので、人知を超えた力という意味で神様で統一しました。

正誤
×ブッダさん
○ゴータマ・シッダッタさん

「神社・神様」問答一覧

神を信じられなくなって辛い。

カトリックですが、神父さんに相談しても解決しないので、こちらにおすがりしています。 数年前、ヒルティと言う偉人の書いた幸福論3部作に心酔しました。良い事も書かれていて非常に感銘を受けました。只、迷信も結構書かれていて、、書物や場合によっては人との出会いは導き、とか。人との出会いは導き、と言う事を信じてしまい、当時出会った人と結婚しましたが、タイプの方では無かったのですぐに苦しくなり、、やむ無く離婚を申し出て相手を非常に傷付けました。私もそんなひどい事を自分がした事に傷付きました。以来6年半経ちますが、神は何故こんな事をしたんだろうと、考えています。答えは勿論ありません。神を信じられなくなってしまいました。辛いです。神父さんとかは、その出会いにも別れにも意味があると言いますが、彼女の嘆きを見た私には、意味があったとは思えません。何でこんなひどい事を神はしたんだろうと悩み苦しんでいます。神は予定はしない、と神父は言うのですが、納得いきません。ヒルティが迷信を書いていたのを信じたのが悪かったと思っていますが、抜け出せません。どうしたらいいのかなぁ、、何卒宜しくお願い申し上げます。

有り難し有り難し 38
回答数回答 3

天部の神様と死について

こんにちは。表題の件について質問させて下さい。 忌中には、天部の神様を祀ってあるお寺に参ってはいけないという話を聞きました。 理由は「死は穢れで、特に聖天さんなんかは穢れを嫌うから」「天部の神様は人間に近いから、死を思い出させることで荒れ狂ってしまうから」「本当は神様はそんなこと気にしないんだけど、あなたが悲しいときに無理してお参りしなくていいよ、という意味だ」など、お坊さんによって様々なようです。 私も最近祖母を亡くしました。 祖母とは生前不仲でしたが、遺体を見ていると「生まれて生きて死ぬとは本当に大仕事で、この人はそれをやってのけたんだな。お疲れ様」と素直に見送る気持ちになれました。 死ぬのは怖いけど、それは死に際しての苦痛への恐怖が主であって、死自体はどんな生き物にも訪れるものですし、決して穢れではないと思うのです。 肉体が腐ることだって、微生物に分解され、本来なら動物や植物の糧になり、土に還るという尊い過程です。 何なら生きることより尊いと思うし、衛生管理のため仕方ないとはいえ、死んでまで化石燃料バンバン使って骨にして何の役にも立たない壺に収めて保管して、アホらし、とすら思いました。 そう考えると、「死は穢れだから」とか「天部の神様が死を恐れるから」という理由は、個人的にはあまりしっくり来ません。 人によって死への解釈や意見は違うものでしょうが、実際のところ、天部の神様にとって人間の死とはどういう扱いなのでしょうか? どうして忌中に参ってはいけないのでしょう? 現役のお坊さんの意見をお聞きしたいです。 よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 1
回答数回答 1

神を信じられなくなってしまいました辛い。

カトリックのクリスチャンですが、神父さんに相談しても一向に解決しないので、こちらにお縋りしています。 数年前に偉人のヒルティと言う人の幸福論と言う著作を読んで心酔しました。何度も繰り返し読みました。確かに良い事も書いてあったのですが、書物や人との出会いは導き、と書いてあったりして、当時の私は私の知らない宗教の神秘かと思い、信じてしまいました。当時出会った女性が自分のタイプでは無かったにも関わらず、運命の人だと信じて結婚しました。直ぐに苦しくなって耐えられない位になり、やむ無く別れをお願いして離婚しました。彼女は号泣して私の胸も引き裂かれる様でした。 以来6年余りが経過しますが、未だ神に逆らって離婚したと言う気持ちが無くなりません。どうして神はこんな事をしたのだろうと答えの出ない問いを続けて苦しんでいます。でも神を信じているから、答えが欲しくて。神父さんにも相談してみましたが、キリスト教も誤った解釈があるとかとは、絶対に言われないので、一向に楽になりません。地獄を彷徨っています。神が何故不幸になる様な事に導いたのかなぁ。どうか宜しくお願い申し上げます。死にたい位辛くてなりません。涙

有り難し有り難し 20
回答数回答 1

稲荷信仰の宗教学民俗学的知見を求めてます

 最近、狐に呼ばれているような気がします。稲荷神社に参る必要性を感じているのですが、どこの稲荷神社に行けばよいのかわかりません。  20歳の時に初めて参り強く心惹かれ、なんとなく購入してきた狐のぬいぐるみを会社に居る間ずっとお世話させていただいていた京都の伏見稲荷大社が筆頭ですが、子供の頃に毎日通っていた千駄木の満足稲荷、今は両親の離婚に伴い縁のない実父の家が代々氏子を務める根津の根津神社内の乙女稲荷、生まれた病院の隣の湯島の花姫稲荷にも縁があります。現実問題として現住所が東京であるため、伏見稲荷大社以外でも失礼にあたらないのであれば、そちらに参りたくもあります。  また、昨年は自殺を考えるまで思い詰めたいた時期もあったのですが、その際に縁もゆかりもなかった女性に救われました。その方とは今は連絡が取れないのですが、不思議な人で、どうも今を思うと言動の節々や所作から、狐だったような気がしてなりません。ただ、この方は仏教系の荼枳尼天に近い気もしており、そうなると仏教系の豊川稲荷に行くべきかもしれません。  祀るにあたってリスクがあると言われる稲荷神ではありますが、それだけに失礼のないよう調査しており、また、この機会に一生祀る覚悟もあります。そうでなくとも、召喚には応ずるべきですし、もしも本当に自殺の間際から救ってくださったのがお狐様であるなら、お礼は言うべきだと強く感じています。故に、気軽に選択できずにいろいろ調べている現状です。  神仏には何かを求めるものではなく、あくまで個人の努力を応援してくださる存在として、私個人の思想と行動を中心に考えるべきということも重々承知しており、現実的な偶然を神秘的な問題と混同する危うさも理解しています。しかし、今回は、なんとなく重要な問題のような気がするので、心の問題というよりも、宗教学・民俗学的問題としての情報を求めています。  稲荷神の分霊に関して、総本宮である伏見・豊川の祭神と、それ以外の全国の稲荷神社の祭神は、神道系仏教系の同カテゴリの稲荷であればそれぞれが等しくどこからでもアクセスできるのか、派遣され憑いてくださるという眷属に関してはどのようなシステムで運営されているのか、全国の稲荷神社に参拝して信心を納めても良いものなのか、宗教学・民俗学に詳しい方がおられましたら、回答もしくは書籍の紹介いただけると幸いです。

有り難し有り難し 8
回答数回答 1

温かい気持ちになるお坊さん説法まとめ