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生まれながらに「葛藤」と共に在るのでしょうか?

 そもそも、我々が誕生し生きているということは「葛藤」とともにあるるように観じております。どうして「葛藤」があるのでしょうか。
 
 どのような環境に生まれたとしても、老いることは避けられません。病に侵されない人もいません。他人からは恵まれていると言われても人知れず「葛藤」があります。

 我々「いのち」ある生き物は、最初から「葛藤」が備わり「悟り」へと向かうことになっているのでしょうか。それとも「いのち」の宿命として「葛藤」があるのでしょうか?
よろしくお願いいたします。

怒りを抑える
有り難し 11
回答 2

質問投稿日: 2018年8月2日 19:57

回答は各僧侶の個人的な意見であり仏教教義や宗派見解と異なることがあります。答えは一つとは限りません。多くの回答(法施)からあなたの人生を探してみてください。
回答僧

大忍貫道

私がいるから葛藤がある

ご質問を拝読させて頂きました。
葛藤という言葉ですが、お釈迦様はこれを苦と呼びました。
なぜ、苦があるのかと言うと、それは、「我有り」と思うからです。
「これは、私だ。」
「これは、私のものだ。」
このような思いが苦(葛藤)を生み出します。

しかし、肝心の私とは何でしょうか。
顔が私なのか。
脳が私なのか。
足が私なのか。
手が私なのか。
どれも私とは呼べません。
そういうものの寄り集まったものを仮に「私」と呼んでいるに過ぎません。
これが、お釈迦様が説かれた「無我」です。
この私が無くなった状態のとき、果たして葛藤はあるでしょうか。
ありませんよね。

仏教の悟りの内容は、セクト(宗派)によって、おそらく違います。
ただ、共通している事は、「我が無い」状態を指している所だと思います。
人間が他の生物と異なる点は、自意識を持っている点だと言われています。
そうなると、他の生物は最初から悟っていると言えるかもしれません。
「いのち」があるからではなく、自意識があるから、葛藤があるのでしょう。
この自意識を全く無くす事が出来るのか、また必要があるのかは私には判りません。
けれども、自意識が薄まれば、苦しみが少なくなるのは確かだと思っています。

1年前

様々な葛藤を繰り返して

拝読させて頂きました。

この世に生を享けて様々な方々に会い育てられ様々なものごとに巡り合い経験する中で、育っていく為生きていく為そして人として成長していく為に様々な選択肢があります。そしてそこでいろいろ試行錯誤しながら心の中では葛藤しながら悩み苦しみながら判断して己の人生を歩んで行きます。
ですから宿命とも思えますしそれが生きる道でもありますよね。

できるならば生きていく過程の中で正しい智慧や真理を悟っていくことも究極的に目的ですがその過程はなかなか一筋縄ではいかないかと思います。

あなたがこれからも様々な方々やものごとに巡り合う中で様々な葛藤を繰り返していき、学び正しく成長なさり心豊かに充実した人生を歩んでいかれます様心からお祈りさせて頂きます。

そしていつの日か成仏へといきつかれます様心から仏様にお祈りさせて頂きます。

1年前

質問者からの有り難し - お礼

葛藤があることで、悟りを体験したいという求道心が芽生えるのですね。
苦しみは成長の糧であって、逃げるものではない。煩悩即菩提ということを教えていただきました。

「無我の境地」:「私」がいないのだから、判断する主体が存在が存在しない。
あらゆる現象も主体なく展開され、ただ起こっているにすぎない。
我々が対象とみなしているものは、対象から我々を見れば主体であり我々が対象となっている。

我々は無尽蔵の主体に囲まれたほんの小さな「無」に等しい対象でしかなく、「身びいき」することはおこがましい存在ですね。

 主体も客体も互いに「無」であれば葛藤する必要も意味もないということがはっきりしました。ありがとうございました。

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