生まれながらに「葛藤」と共に在るのでしょうか?
そもそも、我々が誕生し生きているということは「葛藤」とともにあるるように観じております。どうして「葛藤」があるのでしょうか。
どのような環境に生まれたとしても、老いることは避けられません。病に侵されない人もいません。他人からは恵まれていると言われても人知れず「葛藤」があります。
我々「いのち」ある生き物は、最初から「葛藤」が備わり「悟り」へと向かうことになっているのでしょうか。それとも「いのち」の宿命として「葛藤」があるのでしょうか?
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
様々な葛藤を繰り返して
拝読させて頂きました。
この世に生を享けて様々な方々に会い育てられ様々なものごとに巡り合い経験する中で、育っていく為生きていく為そして人として成長していく為に様々な選択肢があります。そしてそこでいろいろ試行錯誤しながら心の中では葛藤しながら悩み苦しみながら判断して己の人生を歩んで行きます。
ですから宿命とも思えますしそれが生きる道でもありますよね。
できるならば生きていく過程の中で正しい智慧や真理を悟っていくことも究極的に目的ですがその過程はなかなか一筋縄ではいかないかと思います。
あなたがこれからも様々な方々やものごとに巡り合う中で様々な葛藤を繰り返していき、学び正しく成長なさり心豊かに充実した人生を歩んでいかれます様心からお祈りさせて頂きます。
そしていつの日か成仏へといきつかれます様心から仏様にお祈りさせて頂きます。
質問者からのお礼
葛藤があることで、悟りを体験したいという求道心が芽生えるのですね。
苦しみは成長の糧であって、逃げるものではない。煩悩即菩提ということを教えていただきました。
「無我の境地」:「私」がいないのだから、判断する主体が存在が存在しない。
あらゆる現象も主体なく展開され、ただ起こっているにすぎない。
我々が対象とみなしているものは、対象から我々を見れば主体であり我々が対象となっている。
我々は無尽蔵の主体に囲まれたほんの小さな「無」に等しい対象でしかなく、「身びいき」することはおこがましい存在ですね。
主体も客体も互いに「無」であれば葛藤する必要も意味もないということがはっきりしました。ありがとうございました。