他者の死や苦しみについて
はじめまして。日々の中で疑問に思うことがあるのですが、痛ましい事件や災害に巻き込まれ亡くなった方や大きな傷を負った方々の手記や記録等を目にしてしまうとどうしようもなく無念な気持ちになります。
全く知り合いでもなんでもないのですが、突然の不幸の重みがあまりにも理不尽でやるせなくなります。初めて人の所業とは思えない犯罪に巻き込まれた被害者の事を知ったときせめて苦しまずに全てが終わればよかったのになど勝手な事さえ思ってしまいました。
そんなことを思うのならいっそニュースなんかを気にしないほうがいいのでしょうか?
身近なところでもアルバイト先の小さな嫌がらせや何かを受けて孤立している同期などを見ると程度は違えど似た気持ちになります。行動を起こすべきでしょうか。理不尽や苦しみに過敏になるのは間違いでしょうか。
何にせよ本人に原因がないにもかかわらず苦痛を受ける人がいる事実が無性に悲しくなる時があります。
この様な悲しい出来事に巻き込まれてしまうのも以前こちらのサイトの回答一覧にありました「縁」というものなのでしょうか?唯偶然だとしてもやるせないといいますか…。
この何だか勝手な悲しみへの向き合い方を知りたいです。宜しければご回答願います。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
拝読させて頂きました。私もそのような思いにおそわれることはありますね。悪いこともしていないのに何故そのような目にあわなくてはならない人々がいるのか?そのようなことは理不尽ではないのか?など考えてしまうといたたまれない思いを致しますね。あなたのお気持ちを心からお察し申し上げます。
この世の中も世界も私達のはるか想像を超えることやものごとによってつながり続けています。まさかこんなことになるとは思いもよらないということが沢山延々と起こり続けている現実があるのです。
毎日のようにニュースからは自然災害の状況や紛争地域の状況や様々な事件や事故等が発生してあまたの方々や生きるものが苦しみそして死んでしまうことが流されています。そのような悲惨な状況を見るたびになんてひどいことが起きるんだ、神も仏もいないのか、と思ってしまったりも致します。
そのような悲惨な出来事も含めて私達にはわかりえない想像できないのがこの世の中も世界でもあるのです。文明の発達や科学の進歩があったとしても私達には到底太刀打ちできないような私達の人知をはるかに超えることがあるのです。
そのようなことをも含めてあらゆるものを悟り受け入れていくことができるのは仏様です。
しかし私達は誰しもがそのような境地に至ることは本当に大変なことです。とはいえただただ傍観して何もせずに他人事にしてしまうのはいかがかとも思います。
私達は一人一人は本当に弱い存在ではありますが、やはり被害を受けて傷つき苦しんでいる方々や生きるものにその心に寄り添い親身になって情けをかけて慈しみを持つこと少しでもサポートすることは本当に大切ことかと思います。
幾度も繰り返して起きる悲惨な出来事や悲劇にも私達はできるだけしっかりと向き合い、そしてそのようなことを決して他人事にせずにお互いのこととして捉えて助け合い支え合いながら生きていきたいと私も思いますし、そうありたいと願っております。
私達は独りではありません。共に様々なご縁に結ばれて共に生きているのですからね。
あなたがこれからの未来も人への慈しみのお心を持ちながら皆さんと一緒に寄り添い助け合い、共に心から豊かに生き抜いて頂きますようにと切に神仏にお祈りさせて頂きます。
怒りや落ち込みは良くない
他人の悩み苦しみをなくしたいと思う気持ちを、仏教では「悲」と言います。
他人の幸せを願う気持ち「慈」とセットで「慈悲」です。
あなたは、「悲」(あわれみ)の気持ちが強いのですね。それは、とても素晴らしい人徳です。
ただし、哀しみが、怒りや落ち込みを伴うと良くないのです。感情によって自分自身を苦しめてしまいますから。
冷静で明るい「悲」が理想です。
この世の形あるものは、どれも自分のものではありません。
思いどおりにいかない、壊れて欲しくないものも壊れる、その現実を受け入れるように理解しましょう。
質問者からのお礼
成る程、些か手前勝手な考えもあったのですね。納得しました。まずはフラットに現実を見れる様心掛けたいと思います。貴重なお言葉感謝致します。
Koushou Kuuyo Azuma様
丁寧な回答ありがとうございます。願誉浄史様の回答にもありましたように世の中にはどうしようもないものがあるということを理解できたのが何よりもありがたいです。諦念が根底にあれど人を思う事が出来るようになれたらなと思います。大変勉強になりました。感謝致します。