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連日の強盗ニュース

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有り難し有り難し 4

連日強盗殺人のニュースが流れているのを目にして、とても怖いです。
さらにSNSで『家に住人がいるのを確認した上で押し入る犯罪が増えてきた』と言うのも目にしました。コメント欄では日本は治安が悪くなったから武装すべきだ、催涙スプレーを携帯すべき。枕元にナイフを置いているとかいろんな意見があり、見ていたら怖くて眠れなくなりました。
こんなこと考えすぎだと私も思っていたんです。
でもちょうど5ヶ月前、我が家も空き巣に入られてしまいました。
窓を割らずバールでこじ開けられ、部屋はぐちゃぐちゃにされていました。
その後すぐに窓は鍵を追加し、防犯カメラも設置しましたが、こういうことって本当に起きるんだと実感してしまいました。
だから我が家にも強盗が来るかもと思ってしまいます。
幼い子供がおり、子供に何かあったらどうしよう、家の中も安心できず安心できる場所がなくハラハラしてしまいます。
何かアドバイスをいただけませんか。

2024年10月19日 0:48

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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

防衛力の大切さ 常に犯罪者の上をいく防衛を

(編集部より。規約により一部を修正しています。)

そもそもこの世の中にはなぜ仕事としてもセキュリティがあるのか。
なぜATMの回収員は警棒を持ちながら仕事に向かうのか。犯罪者がいるからなのです。日本の良い子ちゃん思想、無防備姿勢は実はかなりディープなレベルの危険思想です。
私は実際に被害にあったことがあるので数年前から様々な日本国内の犯罪の危険性をSNSで警鐘を鳴らしておりますが、世間知らずないい子ちゃんたちは読み取り方を誤って差別だとか、ヘイト煽りだと誤解しています。犯罪や不正の実態を知り、防衛を強化するべきだと言っているのです。セキュリティーは必要です。多様性多様性で新たに入ってくる人が悪者でも何でもない人たちであるかのように誤解している人は多いですが、それはミラー心理です。自分がまともないい子ちゃんだから相手もきっといい子ちゃんに違いないと思い込む。それが危険なのです。
セキュリティーがヘイトだとか差別だと言うことはおかしな論です。相手が誰であろうとセキュリティ、防衛、犯罪対策は大切です。犯罪は現実。
おひとよしちゃんは、犯罪にあっても気づきもしないレベルの人もいます。
ニュースにできない、泣き寝入りしかできないケースも多数。それでは遅い。
子供や女性が無防備で犯罪者から狙われるような格好をさせていながら、性犯罪防止法をつくるなー、性犯罪者にも人権を―、とか言っているようなものです。ルールや法律で犯罪がなくなるぐらいならば世界はとっくに戦争も犯罪もありません。
そういう現実をみずに「犯罪者の人権を守れ―」「鍵をかけるな、セキュリティーを高めるなんて泥棒や犯罪者に失礼だー」とか言っているのはもはや狂気レベルのおひとよしなのだと早く気づくべきです。先日も埼玉でお寺に泥棒が数件はいりました。ニュースにはなっていませんが、通帳も奪われたケースもあります。
催涙スプレー、護身グッズ、防犯カメラ、防犯対策は必須です。

2024年10月19日 7:36
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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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