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恋人の幸せを考えると、いずれ別れるべきなのでしょうか

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初めて質問させて頂きます。
長くなりますが、宜しければ最後まで読んで頂けると嬉しいです。

先日、同性の恋人が出来ました。
今のところは両想いのようなのですが、将来的に、自分としてはいずれ別れるべきではないかと思っています。
理由はいくつかあるのですが、一番大きな理由は、私が恋人でいることで彼女の幸せを邪魔してしまうのではないかということです。

私も彼女も心は女性ですがいわゆるバイセクシャルで、彼女には以前男性の恋人が居たこともありました。
レズビアンではない以上、彼女も女性なので、将来結婚・出産をしたいという思いが少なからずあるだろうし、自分が恋人として隣に居座ることがその邪魔になってしまうのではと思っています。

彼女自身はこれに関しては「そういう願望も無いと言ったら嘘になるけど、多分私は無理だから心配しなくていいよ」と言ってくれています。
しかし、私から見れば彼女は男性から見ても外見・性格共に十分魅力的だと思うので、私が恋人でいることで、素敵な男性と出会って女性としてごく普通の幸せを手にするチャンスを奪うことになってしまったらと思うと不安です。

私は自分自身に関しては、今まで男女問わず恋人というものに全く縁がなかったこともあり、魅力と言えるような要素はほぼゼロだと思っているので、私なんかが彼女の幸せを奪う権利は全くないと思っています。

今は恋人という関係ではありますが、私にとっては恋人である以前に小学生の頃からの親友であり、今まで生きてきた中で一番大切な存在なので、別れたくないという気持ちよりも、何より彼女に幸せになってほしい、彼女の幸せに対して障害になりたくない、という気持ちの方が大きいです。

やはり自然な形ではない関係ですし、いずれ別れるべきなのでしょうか。
また、今は幸せなことにせっかくお互い気持ちを同じくして付き合っているのでしばらくはこの関係を続けていくつもりなのですが、中途半端な気持ちで彼女と付き合っていくのはやはり失礼ですし、何とか自分の中で納得、整理をつけたいのですが、どのような気持ちで彼女と向き合っていけば良いでしょうか。

アブノーマルな話題な上、整理し切れていない長文乱文で申し訳ないのですが、何かアドバイスを頂けないでしょうか。


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お坊さんからの回答 2件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

一般的な価値観を通して見た「幸せ」で不幸になる必要はない

その時が来れば、別れるでしょう。来なければ別れない。
あなたが、その彼女を大切に思う気持ちは十分お相手に伝わっていることと思います。
彼女が気にしてないというのであればそれでいいのではないでしょうか。あなたと居たいと考えあなたを選んでいるのですから。

彼女にとってあなたではなく、男性が良いとなってしまうかどうかは、誰にもわからないことです。もし、そんな時が来ればその時に別れるのでしょう。
しかし、あなたも彼女もお互いがお互いを求め必要としているのであれば、それはわざわざ一般的な価値観を通して見た「幸せ」で不幸になる必要はないでしょう。

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有り難し
おきもち

個別相談可能
禅宗 曹洞宗 僧侶。神奈川県西部円通寺住職。小学校教師。 悩みを吐き出す事で、ちょっと楽になれます。悩みの根本に気づき、明るく爽やかに生きていきたいですよね。 私自身、禅との出会いにより救われた一人です。皆様に少しでもお伝え出来たらと思います。 人は自分の都合を立てて物事に向き合うところがあります。私の回答も期待していたものと違うことがあるかもしれません。その時に素直に聞けるか、回答の内容を否定的に聞くかで救われるかどうかが変わります。疑問は出てくると思います。その時はご相談ください。
ご相談時間は不定期なので、いくつかご都合を教えてください。 ◆小学校教員もしています。子供、家族、ご自身のことお話をお聞きします。 ◆禅のおかげで私も救われました。禅の教えを基に「思い通りにしたい」という自分の都合や価値観から生まれた思い込みをほぐしていくお手伝いをします。 ◆仏教は人生を豊かにしてくれることを感じてくだされば嬉しく思います。

女性の本能が決断を下す

いつか子供が欲しくなる時が来るのではないでしょうか。
その気持ちが起こるか起こらないかが、あなたがたの最終的な道を示すでしょう。
愛を忘れてはいけません。
あなた方が真に愛し合えば、奪い合う事もありません。
子どもを持つことも喜べるはずです。
もっと、高い愛に目覚めるべく、愛し合ってください。
自分を愛されることを欲する事よりも高い愛があるのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

お礼が大変遅くなってしまい申し訳ありません。
そして、お二方とも丁寧にご回答頂きありがとうございました。

自分から別れる別れないの問題ではなく、「その時」が自然と来るか来ないかの問題であること、少し納得できた気がします。
そして「その時」が来てもきっとそのことを嘆く必要のない関係が築けることを信じていようと思います。

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