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好きな人を嫌いになるにはどうすればいいですか

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有り難し有り難し 11

前にもお世話になりました、新高3りんごです。前にもお話ししたように、私には好きな女子がいます。そこで少しだけ触れたのですが、その子は私に対して全く気を遣っていないのです。それが嬉しい時もあります。心を開いてくれていると思えるから。実際に、一緒にいて落ち着く、楽だって言ってくれて、それは本当に嬉しく思います。でも...
私がたまにその子に相談したり、愚痴を言ったりしても、ほぼ返事のみと言う感じですごく軽くあしらわれている気がするのです。なんというか、その子の対応を見ると私の話に付き合うのを面倒に感じているように思えるのです。正直に言えば、その子は愚痴も相談も気を使わずにわーっと言うタイプで、私はその子の話を聞くのは全く苦ではなく、いくらでも聞いていられるのですが、私が話すときはあまり聞いてくれないんだ、と思って、少し寂しくなります。私はあなたの吐け口でしかないの?と・・・それでももちろん全く嫌いになれないし、その子に言われたことに傷ついたことも多々ありますが、どうしても嫌にならずかえってどんどん好きになるのです。だから、相手を憎むことができれば楽な時も、自分が傷つくばっかりで辛いです。他の人に関しては、私は自分が傷ついたらすぐ相手に嫌悪感を抱くというパターンが多いわがままなやつですが、ことその子に関しては相手への嫌悪感を生み出すことができません。どうしたらいいでしょうか。本当は私の話も聞いて欲しいし、一緒に遊んだりもしたいです。ただの捌け口では辛いです。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

本当に相手にしているのはあなた自身かもしれません

こんにちは。
お友達に事が気になって気になってしょうがない。
それはひょっとすると、そのお友達がどうこうというよりは、あなたがその子のことに対する思いが納豆みたいになってるという事ですわい。ねばねば。
糸を引く関係。
他の友達はなんともないはずです。
その子だけが特別という見方よりも、私自身のそういう「納豆な」思い方を断ち切ることの方がイイと思います。
相手に何かを求めるのはその子が持っている何かが私にも廻らしてもらいたいという相手に求める心なのでしょう。
人間本当に自分に向き合えば外に求めずとも、自分で本当に満足するんです。
そういう風にできているんです。
ではどうすれば、自分に満足がいくか。
本当に自分を生きようと思うことです。
あなたが自分自身に本当に時間を費やすことです。
自分の心をディスプレイと思いましょう。
そこに映し出される世界や映像、景色、登場人物はあなたのディスプレイに映し出されている時だけはあなたの世界です。
でも、そこにニコニコ動画みたいにコメントを入れたらいけないのです。
「誰のものでもないものは誰のものでもないままにさせておくから美しい」のです。
アイドルや芸能人だって誰かのものになってしまうとファンたちが急に冷める心理と同じです。
本当のファンはその人が結婚したとしても、幸せになってほしいと思えるのです。それは最初から自分のものにしていないからです。
要求が私的にわたくしナイズされていない状態がキープされているからです。
名画や歴史的な芸術品は誰のものでもありません。
「誰のものでも無いものを誰のものでもないままに。」
そうすることであなたは彼女に対する気持ちが浄化されていくことでしょう。
それをそのままに。
そのもののままに。
私自身が私自身のディスプレイに映し出されたものをわたくし化してしまっているのです。
問題は彼女ではなく、私自身のスタンスにあるのです。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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