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仏像は一つ一つ性格が違いますか?

回答数回答 1
有り難し有り難し 20

夜分遅くに失礼致します。

私は去年、仕事で沢山の失敗があり、
心の支えとして、2ヶ月ほど前に、
7cmほどの小さな聖観音菩薩様の仏像を
我が家にお迎えしました。

そして、寝る前や朝に、すがるような思いで、
(当時は依存していたかもしれません)
ほぼ毎日、観音様に手を合わせ、真言を唱え続けた所、

今まで失敗していたのが嘘のように、
一気に仕事が順調になりました。

売れずに困っていた不良在庫がかなり売れたり、
他のジャンルの失敗続きだったプロジェクトが
いきなり上手くいき始めたりと、とにかく驚いております。

そこで、質問なのですが、この感謝の気持ちを
聖観音菩薩さまに、お伝えしたいと思っているのですが、
どのように観音様にお礼をしたらよろしいでしょうか?

観音様の祀られているお寺さんに
お礼の気持ちを込めて、参拝を考えたのですが、

毎日手を合わせている、我が家の観音様以外の、
観音様に手を合わせるよりも、

我が家にいらっしゃる観音様の仏像に、
いつもよりも真言を多く唱えたりした方がよろしいのでしょうか?

同じ観音様でも、仏像によって人格?や性格が
違ったりとかあるのでしょうか?

我が家に、この聖観音様がいらっしゃってからというもの、
とにかく、失敗続きだったことが嘘のように成功続きで、
この感謝の気持ちをどう表したら良いのか、わからない状態です。

いつも通り、感謝の気持ちを込めて
しっかりと真言を唱えるだけでも、よろしいのでしょうか?

夜分遅くに、このような質問で申し訳ございませんが、
ご教授頂けましたら幸いです。

お手数をおかけしますが、よろしくお願い致します。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

仏の願いとは?

ご相談拝読しました。

仏像にお参りするようになってから物事が順調に進むようになられたのですね。

それは一面では偶然であり、一面では必然と言えるでしょう。じっくり読んで、しっかり考えてみましょうね。

仏像による性格の違いがあるか?ということですが、この仏像はこういう供養は好むけどああいう供養は嫌うとか、この仏像はこういうご利益(実体的に願いを叶えてくれるという意味)があり、あの仏像にはこういうご利益がある、ということはありません。

仏像は仏像です。あくまでもモノです。では模された仏様の違いは何かと言うと、仏のさとりの何を表しているのか?どういう願いをあらわしているのか?という違いです。

例えばザックリ言うと観音様なら慈悲、勢至菩薩様なら智慧、不動明王なら力ずくでも救おうとする姿とかそういう違いですね。

でもその違いが共通して願いとするのは私たちを真理・法則に目覚めさせようとするということです。けして病気を治すとかお金を儲けさせるとか、そういうことではありません。

そもそも仏様とは何かというと人間です。ゴータマ・シッダールタ(お釈迦様)という一人の悩める人間が悩んで深く深く自己を見つめた末に真理・法則に目覚めた姿を仏様と呼ぶのです。人間ですから当然病気を治すとかお金を儲けさせるという超能力があるわけではありません。

しかしながら後世になってそうした俗説や、むしろお寺側もそうした現世利益をうたったりしますが、本来はお釈迦様の目覚めた理・法則の偉大さを比喩的に表現したところから始まったものではないでしょうか。

ですから、仏像にお参りしてものごとが上手く行くようになったというのは偶然です。同時に、上手く行くようになったということは上手く行くような原因がととのったからであり必然でもあるのです。

その原因は「仏像にお参りしたこと」ではなく「仏像にお参りしたことで力をもらい、努力を継続してきた」そして「その努力が社会のニーズに適うものだった」ということでしょう。

仏像は仏像というモノですが、その仏像を通して仏の願い・さとり(真理・法則)に触れさせていただくところに仏像がご本尊として見出されていきます。

ご本尊は生活の拠り所です。そういう意味ではあらゆるものごとに感謝するという信仰の形はとても素敵だと思います。
観音様とのご縁を大事になさってください。

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有り難し
おきもち

はじめまして。北海道の片田舎の農村のお寺で住職をしております。 人生...
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質問者からのお礼

ご丁寧に教えて下さり、誠にありがとうございます。

確かに仏教の教えそのものが、
真理・法則に目覚めさせようという教えでしたね。

吉武様が仰るように、仏像を拝んだから成功したのではなく、
仏像を拝むことにより、自分自身、色々と気が付かされたおかげかもしれません。

今回、吉武様に言われて気が付いたのですが、
拝んでいる最中に、色々と考えさせて頂き、 そこでの気付きや、自分の気持ちのあり方を考えることにより、 進むべき道が開けたようにも思えます。 現に、その時に気付かされたことで、 自分の考えを変えた所、上手くいき始めました。 去年の失敗続きの時は、 かなり苦労して沢山の作業をしていましたが、 それが拝んでいる時や、真言を唱えている時に、 ふと、去年は、間違った方向で努力をしていたのでは? っと思うきっかけもありました。 観音様の仏像が自宅に来るまでは、普段、 気持ちを落ち着かせることをする習慣がなかったので、 仏像を拝むことによって、その機会を頂いたのかもしれません。 確かに、吉武様が仰るように仏像は「物」かもしれませんが、 色々な気付きを観音様の仏像によって、 気が付かされたのも事実ですので、 観音様への感謝の気持ちだけは、絶対に忘れないように致します。 今回、吉武様にご教授頂いたおかげで、より一層、 視野が広がり、観音様以外にも、色々と細かい所まで、感謝できそうです。 ご回答頂きまして、誠にありがとうございます。 これからもお世話になるかもしれませんが、 その時は、またよろしくお願い致します。 とてもためになりました。

お礼のコメントをしっかりと改行をしたつもりでしたが、
ちゃんと改行されていませんでした。

読みにくく、大変申し訳ございません。

この度は、回答を頂きまして、誠にありがとうございました。

また、お世話になるかもしれませんが、
その時は、どうぞよろしくお願い致します。

「仏像・仏様・阿弥陀・観音」問答一覧

神様も仏様も、必ずしも信じられない

以前「何を信じて生きていけばいいかわからない」ということで投稿させていただき、ご回答もいただいたのですが、やや気になる点があり追加で質問させていただきたく。 自分としては誠実にあろうと生きたつもりでした。 でも、家族間でも、仕事でも、あったことをなかったことにされてみたり、なかったことをあったかのようにされてみたりで責められ、うつ病にもなり、とうとうここ1年半くらいは引きこもりや寝たきりに近い状態になってしまいました。 物の善悪も、何を信じて生きていけばいいかもわからなくなりました。 それでも回答をいただき、自分を大切にして、やはり今までの自分を信じて誠実に生きていく方が良い方向へ向かえるだろうと思えてきました。 そうする中で、もう一回本気で取り組める仕事にも出会いたいし、楽しい趣味も見つけたいし、心穏やかに落ち着いて生きていきたいとも考えています。 ただ、「神様や仏様は見ている」という言葉が回答の中にあり、少し暗い気持ちも残ってしまいました。 神様や仏様がいるのなら、どうしてここまで至る前・・・あの時に助けてくださらなかったのか。あの時、あのひどい扱いをしてきた者たちに報いを与えて下さらなかったのか。もし私が間違っているというのなら、こうなるまでにそれを教えて下さらなかったのか。何ならば、今の私を救ってくださらないのか。何が足りないというのか。 そんな汚い感情を払拭することが出来ません。「神様仏様はそういう都合のいいものではない」、もしかすると「私が以前の何かの報いを受けているだけだ」、と言われてしまうかもしれませんが・・・。 そう考えると、 『本当に今まで通り真面目に誠実に生きる方向で大丈夫なのか?』 『今までの道徳をすべて捨て去るようなこともしなくていいのか?』 『それで「誰かに都合のいい人間」でなく、自分が良い人間となり、よき人生を送れるのか?』 汚い感情と一緒に、まだそういう迷いも多少残っています。 「よき人生を送れるかはわからないけど、無理に全部変えないで、今までのものをアップデートする形で十分じゃないかな」とは思うのですが。 神様や仏様に求めすぎるような汚い思いや、そもそも神様や仏様といった存在にどう向かいあうべきなのか。そして落ち着いた心で生きるためのアドバイスをいただけますと幸いです。

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薬師観音様にご挨拶した時のことについて

#お参り#仏像・仏様・阿弥陀・観音 初めて相談させて頂きます。 ありがとうございます。 観音様にご挨拶した時の不思議な体験について、何か気づきを得させて頂ければと思い投稿させていただきます。 よろしくお願いいたします。 先日、お客さんから、川見四季桜が綺麗だったよ、栗きんとんが美味しいよと教えて頂き、天気が良い日に母と出かけました。 可愛らしい桜と、綺麗に赤く染った紅葉と、綺麗な和紙の作品と色々見て、有難く大満足な1日でした。 桜と紅葉を楽しんでいたところ、川見薬師寺に続く階段を見かけて、ご挨拶しようと、急な階段でしたので慎重に登って行きました。 やっとの事で登りきると、正面少し奥に、薬師観音像が見えました。 その時、観音様は私から見て右真横を向いていましたが、一瞬で正面を向かれ、目が合いました。 明らかに目の前で起きた事への理解が追いつかず、何か見てはいけないものを見てしまったのではないかと暫く見つめ合ったまま固まってしまいました。 母に促され、観音様の目の前まで来て、先程のことは一旦離れて、感謝とご挨拶をしました。 先程感じた強い違和感は無いものの、やはり目が合い、微笑んでいるように見えました。 ふと、右真横の目線の先が気になり、確認しに行くと、お寺で飼われている、老犬がいました。 わんちゃんにも挨拶したあと、少し下った先にあるお清めの水が湧き出ている場所に行き、そちらの観音様にご挨拶した際も、やはり目が合い微笑んでいる感じがあり、また呼吸して生きている様に見えました。 その日は1日とても楽しい体験をさせて頂き、ありがとうの気持ちでいっぱいでした。 加えて、人生で初めての体験、感覚ばかりでしたので、不思議に思っております。 拙い文で申し訳ありません。 改めて、よろしくお願いいたします。

有り難し有り難し 6
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有り難し有り難し 15
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涅槃と菩提心を求めず。仏様との向き合い方

悩みのループに入ったときに、今まで頂戴した回答を読み直しています。 ありがとうございます。 さて、今回大げさなタイトルになりましたが、仏様と向き合う心持ちがわからなくなりご指導を賜りたく投稿いたしました。 仏教の最終目的が成仏・涅槃に入ること、また望ましいありかたとして菩提心を起こして日々を送ることだとしたら、私はそれを望んでいない、なのに写経や読経をするのは方向が違うのか考えてしまいます。 普段、自宅のお仏壇にお経をあげたり、近隣のお寺の写経会に参加しております。 そのお寺での住職様でない方の法話で「仏教的な幸せは涅槃に入ること。表現が難しいけれどお星さまになることかな。寂しく思うかもしれないけれど、それが一番の幸せ」というようなお話でした。 私は仏様になったことがないので、そこまで高尚なことはピンときません。来世があるとしたら人間に生まれ変わって、今叶わなかったことが満たされていたいです。輪廻から出られないことがそれほど不幸なのか?と思います。 菩提心につきまして。こちらの僧侶の方々や写経に伺っているご住職様は菩提心があるなあと驚きます。相手の苦痛を減らそうというお心がひしひしと感じ取れます。ゆるがぬ信仰心と強固な信念に基づいているので、悩んでいる方に寄り添えるのだなあと思います。 翻って私は人並みの親切心はあると思いますが、共感しすぎて痛い目にあうことが多く、拠り所(僧侶の方にとっての信仰心)とするものがありません。最近はやりのバウンダリーをはっきりさせて、余計なことに首をつっこむのをやめよう、自分がしっかりしていないので、他人のことはもう放っておこうと決心したばかりです。 ただ、お寺通いやお経をあげることは止めたくありません。記憶のある時からなぜか神社仏閣が好きです。 仏教的に見て望ましい行い・最終目標から逸れた心を持ちながら、どのように仏様と向き合ったら良いか、是非ご指導くださいませ。

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