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元カノを思い出してしまった。

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有り難し有り難し 14

現在、39歳です。大学時代に3年ほど付き合った彼女がいました。就職してすぐに振られてしまい、それから2度ほど連絡を取りましたが、今は連絡先もわかりません。振られた理由は冷めた、他に好きな人ができたとのことでした。メールで振られたのですごくつらく、当時は1年ほど苦しい日々を過ごしました。それからは人を追いかけないように感情をセーブするようになり、付き合っても好きになりすぎないようにしている気がします。現在は結婚もし、子どもはいませんが、奥さんと出かけたり仲良くはしています。ところが最近、急にその元カノを思い出してしまい、振られた当時と同じように苦しい、つらい日々を過ごしています。自分がいなくなったら、楽なのにとも思ってしまいます。なぜこんなことになったのかわかりません。どうしていったらよいのでしょうか。ぜひご教授ください。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

それはご本人様ではなく、あなたの自己脳内の妄想彼女です。

その人間は一人しか存在しません。
あなたが彼女を思うとき、その相手は現実のリアルタイムの彼女ではない別のものを思い描いています。
それはメモリー、記憶、あなたがあなたの脳裏で思い描いたあなたの脳内彼女でしかありません。
つまりあなたはもう一人の空想彼女を脳内で想像してしまっただけなのです。
そして、その彼女は実在しないもの。
現実の彼女は残寝ながらもありがたいことに、あなたの脳内彼女ではない動きをしています。
試しに、その彼女ではない存在で想像してみてください。
できれば隣にいる存在で想像してみましょう。
あなたが想像する現実のその相手はあなたが今想像している表情をしているでしょうか。
ここをきちんと確認してみましょう。
人間は現実の事実を見失い、自己の脳内スクリーンに映し出された妄想を相手にするようになるものです。
ここが混同されてしまうことで、本物・現実・事実・実際ではないものを真実であるかのように錯覚してしまうようになるのです。
彼女とのご縁は真実だったのですから、無理に嫌う必要はありません。
あなたにとって良い存在だったと、自分の心の中の感謝の対象とするだけでそれ以上は深追いしないことです。
人はいつか、この命をお返ししなければなりません。
その中で多くの方とのご縁があります。
恋愛対象としてはいけません。奥様を裏切ることになりますからです。
すべてを授かりと感じ、自分自身をより高い人間性に導いてくださる存在として感謝の心を注ぎ、きちんとお別れ・お見送りをいたしましょう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。すごく心が落ち着きました。頭と心がまだ一致しないのですが、少しでも人間性を高められるよう、生きていければと思います。まだ自分の欲を抑えたりすることができず、お坊さんたちのように自分を律して生きていければと思います。やはり小さいことでも、楽な道よりつらい道を選ぶべきなのでしょうか。

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