hasunoha お坊さんが必ず答えてくれるお悩み相談サイト

お坊さんに質問する
メニュー
メニューを閉じる

なぜ 「欲」 はあるの?

回答数回答 1
有り難し有り難し 16

私は若い時から早く子供が欲しいと思ってきました。
ただ現実は子供を授かれるまでに少し時間がかかりました。
今は息子が産まれて、母になることができました。

息子を授かれるまでは、
1人でもいいから子供が欲しい……!!
夫と私の子供が欲しい!!
と思っていました。
そして息子が産まれ、私の願いは叶いました。

ずっと、1人でもいいから欲しい!って思ってたはずなのに気づけば、もう1人欲しい!!やっぱり2人兄妹がいい!!と、欲が出てきました。
夫は来年40歳になり、子供が二十歳の時に60歳とかないわ。ときっぱり言われました。
私自身は今年30歳だし、ずっと子供は二人欲しいと思ってたしまだ大丈夫!みたいに自分勝手に考えてしまいます。
夫とは再婚で、前妻との間に子供が二人(男、女)いました。
年齢や、環境が違うのかもしれないんですが、前妻とは子供二人を望んだのに、私は二人ほしいの分かってても1人しかダメなんだ……と比べてはいけないと分かっていながら、そんなことを比べてしまいます。

夫は基本、白黒はっきりしてるようなタイプなので、私が「子供ほしい」と言うだけでは、年齢、金銭面など含め納得してくれる感じではありません。
きっともう、私が諦めるしかないんだろうな……と思いながらも、心の中では、いつかもう1人……なんて考えが出てしまい、1人モヤモヤしています。

欲 はなくせるものですか?
それとも葛藤しながら諦めるしかないんでしょうか?
子供ほしいと思いながら出来ないのは、これが私の人生ってことなんでしょうか?
お坊さんにも、こんなどうすることもできない欲はありますか?
なにかお言葉をいただけたらありがたいです。


この問答を娑婆にも伝える
facebookTwitterLine

お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

欲はエネルギー。方向性と使い方が問われるエネルギー。

欲は悪いものではありませんが、活用方法が大事なのです。
たとえばアツいお湯があるとします。
お湯は悪いものではありません。
お風呂にすれば体も温まります。
カップラーメンを作る分には大事なものです。
今日はお寺の掃除でスチームクリーナーで掃除しました。
お洗濯もお湯の方がよごれが良く落ちます。
お湯のチカラはすごいですね。
でも、扱い方を間違いますとやけどしてしまうものです。
中一の英語の教科書で「OH、ユーアー、タケオ!(Oh! you're Takeo!)」というフレーズがありましたが、友人は「お湯あったけぇよ」と聞こえていたそうです。(ナンジャソリャ)

欲は無くなりませんが、欲の拡大化を阻止することができますし、良くそのものの活用方法を自分も相手も救う方向で使うことで良いエネルギーになります。
まもなくお盆の季節ですが、お盆でも人間の我欲を「餓鬼」という鬼として象徴して供養しています。
その趣旨は深い意味では、自身の中の自身の欲をより良い方向へ向かわせて、菩提心という自分も相手も救ってあげるエネルギーに向かわせる法要をお勤めしています。だからこそ、宗教心という心を良い方向へ向けるための心は人間誰もが持て要るべきであろうと思います。

人間個人は世界という大きな広がりを持つ蜂の巣の中で、各自がそれぞれの役割を持った蜂のようなものです。
それぞれがそれぞれのスキルをもって存在しています。
その力を一生、ただ自分の事だけに使う人もいれば、ここにいらっしゃる登録僧たちのように無償で人の心のとげぬき活動やヒーリング活動をされる方々もおられるのです。
蜂の針だって自分たちを守る上で大事なものです。
蜂の毒だって活用方法次第で薬にすらなります。
ここで大事なのは、自分の持ち前のものやスキルを「どのような素晴らしい方向へ廻向(めぐ)らせることができるか」ということです。
自分がこの世に生まれてきたことですら、自分の意志ではありません。
生命そのものの大いなる意志です。
だからこそ、その各自各自が生命そのものの最高最上の栄えになることを追求していきますと、自分自身の欲というエネルギーの用い方であり「責任・責務・使命」でもあると言えましょう。
欲のまま、ほしいままにしてしまえば誰かが苦しい思いをするようになってしまうからです。
虹のある方向へ向かって進みましょう。🌈✨

{{count}}
有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

煩悩スッキリコラムまとめ