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学校での恋愛

回答数回答 1
有り難し有り難し 6

自分は高校3年生なのですが、1年生の時からずっと好きな人がいます。
1年生のとき一度彼女に告白したのですが、ふられてしまいました。
それ以降は友達としてつきあってきました。
そして3年生になり状況を変えようと思い、再び挑戦しようとしましたが
彼女が自分の気を察してしまい、それからというものの
およそ10か月ほどきまずくて話はおろか目を合わすことすらできません。
あと1か月もしないうちに卒業してしまいます。
自分はどうすればよいのかよくわからなくなってきました。
あきらめるべきなのか、思い続けるべきか、再び挑戦するべきか、いずれでもないか。
なにがよいか教えてください。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

撃沈のために生きない

高校時代、失恋しまくって世の無常を感じたたんたん丹下です。
結論から先に言っておきます。
失ったものは大きかったですが、失いは同時に学びであり、新しい出逢いであり、マリオジャンプでもあります。
わざわざ失恋して自分を苦しめるために告白するのは、自己満足でおわり、何も実りがありません。
その後のダメージが長く続くと思います。
あなたの感じだと、見込みがなさそうな事は自分でも感じているはずです。
告白して傷つくべきか、
告白せずに後悔して傷を最小限のダメージに留めておくべきか。
少なくするか。
気持ちを前向きに持って、
告白して、付き合ってフラれるか、
告白して、フラれてスッキリするべきか。
もちろん、他の可能性もあります。
ですが、絶対に悪く考えないことを前提に、告白するのもアリかと思います。
進学等を通して、環境が変わるとお互いその環境の変化に対応することに追われて、他の学校の恋人所で無かったりするかもしれません。
ですが、フラれたとしても進学先の新しい環境の変化が、失恋の傷をいやしてくれるかもしれません。
なんだか、撃沈することばかり言っていますが、これはあなた傷を少なくするための配慮です。
告白してうまくいけば嬉しさ百倍。
ダメならダメで、多少痛みが和らぎます。
どう転んでも大丈夫です。
またご相談ください。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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