生きる事は神様に試されている?
人間は長生きをしたいと願い
長寿を願う人も多いと思います。
人生は修行ですとか
神様に試されているとか
聞いた事があります。
人格の良い人、
日々の行いの良い人は
短命だとも聞きます。
それでも殆どの人は
長生きを願いますよね
何故か矛盾を感じます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
人生を意味あるものにしていきたいですね。
こんばんは。亀山純史と申します。
昨今の健康ブームを見ると、健康で長生きをしたいと願っている人がいかに多いかがわかりますね。私自身も、最近は自分の健康にはかなり気を遣って生活しています。「生きたい。」という思いは、生命の根底にある欲求なのでしょうね。
「人生は修行である。」とか「私たちは神様に試されている。」と言ったことは、辛い思いをしながら生きているときに生まれる思い、考えでしょう。つまり、「今のこの辛い状況に、何か意味を見い出したい。」「今のこの辛い状況を、何とかして肯定させたい。」ということから生まれてくるものだと思います。このような思い、考えに対して、私はどう考えるでしょうか。私は少なくとも、「人生は修行である。」とか「私は神様(または仏様)に試されている。」とは考えません。「私の人生は、私を悟りに向かわしめようとしてはたらいている阿弥陀様のはたらきの中に生かされている人生である。」「私は阿弥陀様に‟我に任せよ”と願われている。」と考えます。それは、私は浄土真宗に生きる者だからです。他宗の方なら、他宗なりの回答があると思います。また、同じ浄土真宗でも、別な表現をなさる方もおられることでしょう。
「人格の良い人や日々の行いの良い人は短命だ。」ということについてですが、私自身、そのような言葉は聞いたことがありませんでした。たぶん、この言葉も、先ほどの「人生は修行である。」とか「私たちは神様に試されている。」と同様に、短命だったことをいかに肯定するか、ということに基づいたものではないでしょうか。実際、人格者であったお釈迦様は80歳まで生きられました。浄土真宗の開祖であられます親鸞聖人は、90歳まで生きられました。
人は常に悩みながら、そして自分の人生を模索しながら生きているんだと思います。そのような中で、生きるための支えになってくれる教えに出会えたならば、寿命の長短に関わらず、人生は意味あるものになるのだと思っています。
質問者からのお礼
亀山純史様
ご回答頂き有難う御座います。
確かに私がどん底の
苦しみの中に居る時に
お寺のお上人様に
かけて頂いたお言葉でもありました。
なるほどですね
その時の辛い状況を何とか
私が乗り越えられる様にとの
お心遣いだったのかもしれません。
お釈迦様は80歳
親鸞聖人様は90歳の
ご長寿だったのですね
勉強不足でした。
私の家系は仏道に(先祖供養等)
縁が薄い家庭でした
たまたま家系とは違う宗派ですが
幸いご縁を頂き
日々支えて頂いている事に
感謝し生かせて頂こうと思いました
貴重なお言葉
有難う御座いました