「幸せ」の後に来るもの
何か日常で「幸せだ」と感じることがあると、その後に不幸なことが起こるのではないかと不安になります。
例えば、恋人と1日過ごし、別れたとします。その後また一週間後にデートの約束が入っていたとすると、その一週間の間に何か悪いことが起きてしまうのではないかと怖くなります。仮に、一週間何も起こらず無事デートの日を迎えても、幸せの相乗効果により、もっと悪いことが起こるのではないかと思います。悪循環です。
この思考パターンを断ち切るためにはどうすれば良いのでしょうか?
予め、起こるかもしれない不幸について考えることで予防線を張っているような毎日で、疲れてしまいますが、気を抜くと悪いことが起こりそうで不安です。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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如是我聞
子供のころ、雪が好きでした。雪に顔型つけながら歩いたり、手袋の黒いところに落ちた雪の結晶をしげしげと眺めたり、遠くの方はたくさん降ってるのか、ここと同じなのか友達と語ったり。アイスバーンで滑ることさえ面白かったです。
でも、だんだん雪掻きを手伝うようになると、少しづつ面倒くさくなってきます。最初は雪掻き自体も季節を感じられて楽しいのですが、毎日やっているとだんだん溶けて重たくなってきます。日々重くなるのに比例して、厭になってきます。
それでもまた新しい雪に埋まったお寺を見ると心が寂かに打ち震えます。あれ、なんて形容すればいいのでしょうね。こう、なんか…冷たく真っ直ぐ完璧であるようでいて、丸く穏やかで足りないようでもある。厳しく危険なようでいて、柔らかく全てを受け入れるようでもある。見ているとドンドン引きづり込まれるようです。
でも、溶けてベチャベチャになることを思うと、雪がだけで、はぁ…嫌な季節になったなぁと思います。あのベチャベチャの中から落ち葉が出てきて、それを掃除しないといけなくなるかと思うとなおさらです。あいつら掃きにくいんですよ。
雪は変わりません。新雪が降ることも、溶けることも引っくるめて一連のサイクルとして、雪は何1つ変わりません。でも、人の心が勝手に変わっているのです。雪には良い悪いも、幸不幸も無いのに、人間の心が勝手に良い悪い、幸不幸を認定します。幸せとは、認定の問題です。
世界には本来、幸せとか不幸というものは存在しません。存在しないのだから、バランスを取るように発生するわけがありません。バランスというものも、人の心が勝手に認定しているだけです。
そのように知れば、そう考える必要が無くなります。
質問者からのお礼
お礼が大変送れてしまい申し訳ありませんでした。
しかし、お返事をいただいてから、ずっと、ふとした瞬間にこのことを思い返し自分自身に言い聞かせておりました。
まだ不安は拭い去ることができませんが、それでも日々、幸不幸を定めることなく人生を眺められるように努力しております。
お導き、ありがとうございます。強く生きます。