不正入学
某仏教大学をお茶をやっている親戚から、推薦入試で受験するよう言われ、受験資格は満たされてたので、受けたら合格しました。入学後そこの学校の先生から、万年筆とバッグをもらいました。うちの母は、もう亡くなっているのですが、生前縁故入学と言ってました。一度辞めようと思いそこの信頼できる先生にその事を言ったら、そんなことはないと叱られました。結局5年かかり卒業しましたが、罪の意識が未だあります。自分にも自信が持てないです。きちんと法的に裁かれる事だと思いますが、勇気がありません。
カネ、コネに執着する自分がいる。
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自信を持つに足る事実を見つめて
こんにちは、はじめまして。
過去の大学入学の経緯について御不審を抱かれているのですね。「うちの母は、もう亡くなっているのですが、生前縁故入学と言ってました」と仰っていることから、「不正入学」だと推測さているのでしょう。事実関係について、この入試についての発端になったご親戚も知っているとも思われますが、問い合わせをされましたか。
不正が事実だとして、恐らく事実関係について今から調べて事実確認をし、「法的に裁かれる事」に至るまでは相当難しいです。何より、大学側が認めないでしょう。そもそも、「受験資格は満たされてた」し、試験を「受けたら合格」したのでしょう。少なくとも形式的には問題がないと思います。「信頼できる先生」にも不正を否定されたとあります。果たして、この難しい見通しの問題に労力を割くことがどれほど意味があるのでしょうか。
では、仮にこの問題が裁かれたとして、ひよこさんは「自分にも自信が持てない」という状況が改善されるのでしょうか。否、根本的な問題は、自信をどうやって持てるか、についてあると思います。
ひよこさんは、その大学でどんなことを学びましたか。留年すると、ずるずる行ってしまって結局卒業できないことが多いという事を、かつて私も大学教員の職にありましたので知っています。しかし、ひよこさんは5年で、きちんと卒業しているではありませんか。少なくと一定程度の勉強をしていなければ、単位は取れないはずです。いかにお情けでも、白紙の回答を出す人に単位はあげられません。講義等で、心に残る言葉を聞いた、調べ物をした、知識欲を喚起する実りある学びがあった、のではありませんか。そして、何より五年かかっても卒業させてくれたお身内の後支えがあったはずです。大学4年間でも大変な学費です。その周囲への感謝、そして自分の努力を大切に、大切に見つめませんか。
あなたを支えてくれる人がいる、それはあなたが大切だから支えてくれたのです。大切にされたこと、これはあなたがそのままで愛されているという自信になりましょう。あなたは、きちんと卒業できる努力をした、これも自信になりましょう。
これから、何かをすれば自信が生まれる、のではないでしょう。
既に自信に足る事実を持っている、ただそこに思いを致すことができるか否かに問題の本質はあると思います。
応援しています。自信持ちましょう!