空回りかそもそも努力ではないのか
大学受験に失敗しました。
自分なりに頑張れるときは頑張ってきたつもりだったのですが、名前を書けば入れるような大学しか合格できませんでした。
「自分なりに」というのも失敗の一因だと思います。絶対量が足りなかったり効率が悪かったりで、当然周りの評価も「努力不足で怠けていた」といった感じです。中には「受験に向いていないから、いくらやっても無駄」と言う人もいました。
確かに、私は甘えていたと感じます。けれども過去の自分にあれ以上のことができたとは思えません。「コツコツ努力するのも才能」という言葉を聞いたことがありますが、そもそも「努力」が何なのかが分からず、そんな自分がこれを語るのは逃げになる気がします。
お坊さんにお尋ねしたいのですが、本当に努力は才能なのでしょうか?意志の力でどうにかできるものなのですか?
もう一つ、先程「甘えてる」と表現しましたが、それだけで自分を責めたつもりになり、言葉だけが上滑りして、実の所は何も変わらない自分が本当に嫌です。私はどうしたら変われるでしょうか。
自分に甘い
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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運命と縁起
ご相談拝読しました。
自分を変えたいと願っているのですね。以前にもそのような質問をしておられましたが、このたびの大学受験の失敗もあり、あらためてそのように思うのですね。
それはとても大事な気持ちだと思います。
しかし、気をつけたいのは今の自分がダメだから変わるのではなく、変わりたいから変わろうと努力するという視点でないと、努力が思う様な結果と結びつかなかった時にいたずらに自分を責めることになるだけでしょう。
さて、これからについてですが
>過去の自分にあれ以上のことができたとは思えません。
これはその通りだと思います。今のあなたからみたら不足であるように感じても、その時のあなたはあなたなりに最大限頑張ってそうとしかできなかったのでしょう。
ですが、それをそのまま「これからのあなた」にも当てはめて努力を放棄してしまうことを甘えというのではないでしょうか。努力の放棄は可能性の放棄です。
これからのあなたはこれまでのあなたとは違う。いつからだって人はスタートを切れます。それは過去をなかったことにするのでなく、過去を引き受けるところからが本当のスタートです。
たしかに過去の自分にはできなかった。でもこれからはそうではないかもしれない。
「才能」が生まれつき与えられた先天的な特性だとするならば、それは確かに私たちの在り方に大きく影響するでしょう。
でもそれで全てが決まるわけではない。これから先も全部決まってしまっているから努力しても無駄だという在り方は運命論です。
仏教が説くのは縁起(えんぎ)論です。縁(条件・環境)によって未来は変わる。「才能」も縁の一つにすぎません。
自分の特性・傾向を受け入れつつ、その自分がこれからどうしたいのか願いをもって、大事なことに気がついたその時からまた歩み出していきましょう。
今のあなたもそのままで大事なあなた。大事なあなただからこそ自分の可能性を放棄せず、あなたのこれからを大事にしていきましょう。
大学では色んな講義があると思います。やらなければいけないと思うと努力も辛いです。何か一つ、「これ面白いかも!」と思えるものが見つかるといいですね。応援しております。
質問者からのお礼
「過去の自分をこれからの自分に当てはめて努力を放棄することこそが甘え」というお言葉、とても胸に響きました。周りからの信用を大きく失い、自分自身も「どうせだめだ」という認識に傾いていましたが、それこそが可能性の否定なのですね。与えられた環境で頑張ろうとおもいます。回答どうもありがとうございました。