なぜ幸福を追求するんですか?
世のため人のためといいますが、みんな頑張りすぎだと思います。
もう本当に無関心になってしまえば滅亡できていいと思います。
無は0ではなく、無は無とも言えない。やはり無は無いんでしょうか。悲しいです。
煩悩に塗れやすい性質は仕方ないし無理にどうこうする必要は無いのでは?
困っている人が気になって生まれ変わってしまうこともあるそうですが、それも気にしなくていいと思います。
人に何か言っても結局、当人の問題なのになぜ説くことが推奨されているんでしょうか。
煩悩がすごいので一般的な押し付けの幸福や向上や真理の追求は幸福だと思えません。じっとしているだけで愉しいというのはものすごく悟らないと厳しそうですかね。
もう何かを信仰するのを諦めたいです。
ハスノハで相談するのも矛盾ですが、また書いてしまいました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
【至盛の要求】
"相談するのも矛盾ですが、また書いてしまいました"
ハハハ、なかなか止められんだろう?
"無関心になってしまえば"
そういいながらも無関心ではいられない?一見冷淡で虚無的な言葉の連続の中に、私はあなたの真面目さと底なしの優しさを垣間見る。
【人心の至奥より出づる至盛の要求の為に宗教あるなり】
京都の大谷大学初代学長・清沢満之はこのようにおっしゃったそうな。きっと、あなたも人生の最大の疑問を問わずにはいられないんだ。これはとても難しいし、しんどいことだけど、この煩悶の中にありながらもやっぱり追求せずにはいられないんだ。
一つの学問或いは宗派を腰をすえて学びましょう
こんにちは。
前回に引き続き、二回目のご縁となりました。
前回は、理屈をもっと具体的に考えましょう、と申しました。
「なぜ幸福を追求するんですか」とのことです。
まず、表題の「なぜ」というこの問いは誰にとっての問いなのでしょう。
ご自分にとって、ですか。第三者にとって、ですか。
自分の場合なら、幸福とは何ですか、或いは幸福を追求する方法とは?という問い方になるはずです。大まかに第三者にとっての「なぜ」という場合なら、抽象的すぎて深めるのが難しいです。第三者は千差万別ですから。
「もう何かを信仰するのを諦めたい」との事です。
過去のご質問も拝見しましたが、いくつかの宗派とご縁をもたれているようです。
いまあなたがどのようにお考えかは分かりませんが、まず一つの宗派、宗教を腰をすえて学ぶことが必要ではないでしょうか。石の上にも三年といいます。そこから、体系的に問いつつ、学ぶことが大切だと思います。
現状では、どのような立場に立つのか、また言葉の定義は、先人はどのように考えたのかなどへの追究、学びが不足しているように思います。一度、先哲の書物と解説書なりから始めるともっと深まりますよ。お勧めします。
ご参考になれば幸いです。
質問者からのお礼
読んで一時はいいなと思いますがそれが持続しません。いろんな思想家が気になっても濫読をやめるべきですね。回答ありがとうございました。
人心の至奥〜はいい言葉ですね。回答ありがとうございました。あんまり深刻にならないように気をつけたいです。