今、人の疑心は晴らせるものでしょうか?
先日、近所の人から「貴方のところよく車が無くなるけど自粛しているの?」と聞かれました。
買い物は休みの日に一度、必要な分だけ。その時ついでに食事を済ませたりはします。
うちは公共交通機関が乏しい場所なので、通院や洗濯、仕事の事情で車を使うこともあります。旅行らしい旅行だって数年間しておりません。
説明しても空返事、本当は遊んでるんでしょ?と目に見える反応。
思わず(人の駐車場を見ているあなたが不要不急の外出なのでは?)と憤りたくなりました。
この疫病が蔓延する中、人に対する余裕もない世の中。そんな中で生まれた疑惑が積み重なりどういう凶行としてあらわれるか、正直怖くてたまりません。
よくよく文章を読み返したら、私もその人を疑っていますね。
こういった場合、どうすれば疑いを晴らせるのでしょうか。
稚拙な文ではありますが、何卒、ご回答頂ければ恐縮にございます。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
「近所の人」を基準にしない
こんにちは、初めまして。
自粛生活をせざるを得ない、現況ならではのご相談ですね。
昨今は、自粛警察と呼ばれる他者の生活を見張るような私的活動があると聞きました。当のご本人は善意で行っているとはいえ、指摘される側にも諸事情があります。あなたも、「公共交通機関」の問題、「通院や洗濯、仕事の事情」があるのでしょう。そのご近所の方は、この背景を理解しているのでしょうか。文面から伺う限り、ご自身なりに最低限を心掛けていると感じました。
確かに、不要不急は感染しない、させない、三密を避ける意味では必要です。
人命がかかっているので、より真剣になるのも分かります。
ただ、不要不急といいますが、何を「要」とし、何を「急」とするかは人それぞれのケースによって違います。「近所の人」を基準とする限り、あなたの生活は不要不急の断罪を免れないでしょう。その意味では、「疑いを晴らせる」かどうかのもんだいではなく、先方が自分の基準を見直さない限り、あなたはいつまでも不要不急の対象になり続けます。通院も、仕事も不要不急・・・、あなたはそれを受け入れることは出来ないでしょう。
善人の家には争いが絶えない、という言葉を聞いたことがあります。
普通、善人同士には争いが無く、終始にこやかな穏やかな日常があるように想像しますが、さにあらずです。自分を善人と自認する人は、他者の善を善と思えません。自分の善で、他の善を裁くという矛盾したことが起こります。また、善だと思っているので、見直すことがありません。このために、争いが絶えないのです。
「近所の人」が自分を善と自認する、心の基準の見直しに付き合い続ける事はできないでしょう。話半分にきいて、受け入れるべくは受け入れて、他は軽く受け流すぐらいが現実的な方法かと思います。
自粛生活を、共に乗り切りましょう。
質問者からのお礼
回答ありがとうございます。
合点がいきました。確かに現時点の暮らしで彼らの基準に沿うことは私にはできません。
悪気はないにせよその事実には変わりないので、それこそ不要不急、出来ないことは出来ないと気にしないことにします。
釋様の非常に力強い励まし、本当に有り難く感じいりました。
ありがとうございます。
自粛生活の果てに健やかな日々があることを。