地獄のことを考えてしまいます。
こんばんは。
前回の質問のこともあり、地獄が怖いです。
何かをしていると、地獄のことをよく考えてしまいます。
例えば、何かを話したりしたとき、今の発言は嘘をついたことになり、地獄に堕ちないだろうかと考えたり、
自分でこれをしたら地獄に堕ちるかもしれないというルールのようなものを考えて、それを破ってしまったら、地獄に堕ちてしまわないかと考えたりします。
そのため、そういうことをしてしまったり、一度気になると、気が済むまでやり直したり、頭の中で謝ろうとしたりして、何かをするのに時間がかかることがよくあります。また、地獄に堕ちるのが怖くて、出来ないことも多くあります。
他にも、法律なども気になり、破ってしまってはいけないと考えすぎてしまいます。
どうすればいいのでしょうか。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
償うきもちで。
『地獄が怖いです。』
そうですね。みんなだいたい気にするのって
天国の話より地獄の話ですよね。
地獄の話はお檀家さんも興味津々で聞いてくれるけど
天国の話は途中で眠くなる人いますからね。
『どうすればいいのでしょうか。』
ご自分でできる範囲でいいので
償いの気持ちでできることを実践していただきたいなと思います。
地獄というのは自分自身を責める心のことです。
あるいは周りを責めてばかりの心のことです。
地獄の責め、とかいいますよね。
それに対して私たちはいかに償えるか、を
地獄は問いかけていると思います。
そもそも地獄というのは
みんな落ちて苦しみを味わうことばかり考えますけど
実際には、その苦しみを「与えている側」がいるわけですよね。
その存在を私たちは忘れているんです。
つまり地獄の本当の原点は
苦しみを味わう側ではなく
苦しみを与える側なんです。
『彼ら』はいったい誰か?という話です。
彼らは、ざっくりいうと恐ろしい鬼のような姿をしていますけど、あれ
どこから来たんでしょう?
経典で調べてもいまいちよくわからないんですけど
思うに私は、地獄に落ちた人と『一緒に』落ちてきたんじゃないかと思うんですね。
心の中に一緒にいて落ちてきたんだろうと。
何かを責める心と責められる心に分断されてずっと苦しんでいる状態。
それが地獄なんだと思います。
よく生前の悪い行いで地獄に落ちる、とか言いますが
実際は、すでに生前の心の中が地獄だから死後も地獄のままですよと言っているに過ぎない。
だからできる限りの償いをしよう。
ほんの少しでもいいから
「自分が生きていることには意味があった」といえるように。
そのように私は思うんです。
「意味があったこと」というのは
「ほかの誰かの支えになったこと」です。
何をしたら地獄に落ちるかを気にしていたら
確かに時間がかかりすぎてしまいますね。
ですからそれよりは
何をしたら自分や人の支えになるだろうか、、と考える方が
はるかに時間も有意義に過ごせるのではないでしょうか。
南無釈迦牟尼仏 合掌
質問者からのお礼
ありがとうございます。
考え方を変えて、できるだけ良いことをするように努力します。