死のうとしたら大嫌いな蜘蛛に助けられた
閲覧ありがとうございます。
神様や仏様、亡くなった祖父母が姿を変えね、または他の存在を利用して、私の命を助けてくれたと思って良いのでしょうか?
先日仕事で悩み、突発的に死にたくなって10階建ての建物の階段登っていました。
そうしたら半分くらい登り終えたところで、階段に大きな蜘蛛の巣が張っていて、小さな蜘蛛がいました。
私はもともと蜘蛛恐怖症なので蜘蛛を見て怖くなり、気がついたら蜘蛛から逃げるために1階まで階段を駆け下りていました。
そして1階まで階段を降りた後、ふと気持ちが冷めて、死ぬことをやめ帰宅しました。
今になって冷静に考えれば自分でも死ぬ覚悟があるならば蜘蛛などどうでも良いし、そもそも1階まで駆け下りて逃げる必要も無いと思うのですが、その時は必死でそのように思いませんでした。
蜘蛛の糸と言う話がありますが、私の場合は蜘蛛が大嫌いで今まで蜘蛛に対して酷いこと(見たら怖くて殺してしまうなど)しかしていないのに、大嫌いな蜘蛛に命を助けられました。
今では、神様や仏様、亡くなった祖父母が、蜘蛛という存在として、または利用して、私の命を救ってくれたのかなと思って、頑張って生きようと思っています。
分かりにくい文章ですみません。
よろしくお願いいたします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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天の加護なきことを疑わざれ
「神か仏か、誰かの生まれ変わりかもしれない蜘蛛に救われた」そう思うこと、考えることが信心です。きっと救って下さったのでしょう。これをきっかけに、一生懸命生きようと思うのはとても善いことです。
日蓮さんのお手紙に「天の加護なきことを疑わざれ。現世の安穏ならざることを嘆かざれ。」という言葉があります。生きるということは、困難の連続です。しかし、一生懸命に生きると思うのならば、天も必ず護って下さることでしょう。天は誠実に生きる者を護るのです。
どうか、これを機に出来るだけ、明るく楽しく元気に生きていかれて下さい。私からの願いです。
それでもまた死にたくなったなら、ハスノハに相談して下さい。
あなたの生きる道が温かい光で照らされることを祈って。
南無妙法蓮華経
1回死んで、成仏できなかった
仏教的には、瞬間瞬間ごとに新しい自分だと考えます。
細胞は新陳代謝で入れ替わり、記憶データを相続しているが、肉体は別の物体になっている。
死のうと思った瞬間のあなたと、今のあなたは別の物体です。
いわば、あのとき、あなたは1回死んだのです。
ただ、「本当はまだ死にたくない」という生への執着、未練があったから、蜘蛛から逃げて、今の新しいあなたに生まれ変わってしまったのです。
あなたを生き長らえさせたのは、あなた自身の生への執着心。
つまり、1回死んだあなたがまだまだ成仏できていないから、あなたはまるで幽霊のように、今日もこの世に生きているのではないでしょうか。
「本当は命に未練がある」という自分の煩悩に気付けたのは、成仏に一歩近づいた良いことだと思います。
ちなみに、お釈迦様は生への執着を完全に捨てられましたが、だからといって死に急いだわけでもありません。
寿命があるうちは人々に教え導き、死期が近づいたら「わが齢(よわい)は熟した」と寿命を受け入れ、お釈迦様との別れを悲しむ弟子を叱咤激励しました。