サイコパスと呼ばれる人達
動物を虐待している所を動画にあげる人。
動物を虐待し惨殺する人。
自分の子供に虐待をして殺してしまう親。人を何人殺しても平気でいる人。
なぜ弱い物達を苦しめるのか。
動物を虐殺したニュースや親が子供を虐待して殺したというニュースを見る度に何故そんな事をするの?と思います。
特に私は猫を飼っているので猫を虐殺した犯人に、憎い…憎い…と憎しみの気持ちが
生まれます。その子達に救いはないのか?と
そんな事をされるために生まれて来たわけではないのに。
そういうサイコパスと呼ばれる人達をお坊様方はどう思われますか?
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
縁が整えば人間は何にだってなる
こんにちは、初めまして。
あなたが動物虐待、児童虐待を憂う気持ちは分かります。
私も、酷いニュースなどに接すると暗澹たる気持ちになります。
ただ、そういう酷いことをする人を、酷いね、異常だね、考えられないねということだけに終始するのが仏教ではないと思います。その理由について以下に述べます。
まず、「動物を虐待し惨殺する人」=「サイコパス」(精神病質)と断定することは、私にはできません。そこには、精神医学、生物学、心理学等々の定義が必要です。ここでは、それは主題ではないでしょう。また、犯罪を犯した人は、法律に照らし合わせて相応の罪に服すべきだと思います。それはあなたも同様だと思います。
ただ、私はこういった質問でいつも思い浮かぶのは、親鸞聖人のお言葉です。それは、『歎異抄』にある「さるべき業縁(ごうえん)のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」というお言葉です。つまり、人間は縁が整ったら、どんな行動にも出るという事です。鬼にも、蛇にもなる。
今は平和だから良いですが、ひとたび戦争状態に陥るならば敵国の人を殺めざるを得ないことがあるかもしれません。そんな時代は過去にありましたが、未来においても無縁ではいられないでしょう。その敵の人にだって、家族があり、その人の幸福があることだと思います。その命を奪うことを自己防衛のため、と正当化せざるをえない事態だって考えられるのです。戦争に限らず、罪の内容に関わらず、自己正当化のために罪を犯す状況は平時でも十分あり得ます。
繰り返しになりますが、勿論、私は人・動物を傷つけること、殺めることを承認しません。しかし、自分にはそういったことが100%無縁であるか、とは言い切れないということにも納得をしています。むしろ、自分が100%無縁であると言い切るのは、自分という存在への認識不足であり、希望的観測に過ぎないとさえ思います。
自分がこれまでに罪を犯さなかったのは、縁が無かっただけ、偶然に過ぎないと思います。自分の心が良いから犯さなかったのではない、とも。だから、私は人を傷つける人を見て自分と異質である、と排除はしません。他山の石とすべきもの、自分の業の深さを知らせるもの、そして本来地獄行きのこの私を極楽へと方向転換してくださった仏様への感謝を思います。
あなたはどうですか?
脳の問題もある
以前テレビ番組で見ましたが、あるサイコパスの人が、脳の病気の手術を受けた後に、サイコパスではなくなった事例があったそうです。
発達障害などもそうですが、生まれながらの脳の問題や、後天的な病気の影響で性格が変わることがあります。
ですから、肉体的・物理的な要因で人格が左右されることもあると理解し、そのような人々の存在を自然現象の一つとして受け入れるしかないと思います。