長生きしたくない、早く死にたい
久々に投稿させていただきます。
カテゴリーに悩みましたが、今回の通りとさせていただきました。
さて、タイトルの通りですが、私には『長生きしたい』と言う願望が今のところありません。最近の世間の物騒な様相を見るに付け聞くに付け、世の中に希望が持てなくなってしまうことがしばしばあります。
いっそ、早く死んでしまえたらどんなに良いか。これからの未来を生きることに強い不安と恐怖を覚え、体が震えてしまうこともあります。
小さい頃に、手相占いで生命線が長いことを告げられ、子供心に当時はかなり喜んだのですが、今になってみると「どうして…」と言う気持ちばかりが強くなってしまいます。
最近は同じような夢を頻繁に見るようになりました。
『お前が何気なく、あるいは良かれと思ってした行動の裏側で、一体どれ程の人達や動物達が悲しい思いをしてきたのかを思い知れ』と言わんばかりに、これまでの自分の過去の行いをテレビのVTRのように見せられる、もしくは追体験させられているかのような夢です。
後者(追体験ver.)だった場合、「あれから時間をかけて経験を積んだ。そうだ、きっと違う未来にできるはずだ」と奮起するのですが、どう足掻いても結末を変えることができず、いつまで経っても自分は何も変わっていない事実に絶望して…といった内容です。
「妄想は所詮妄想に過ぎない」と言ってしまえばそれまでなのですが、夢から醒めめた直後、『もう取り返しのつかない事だろ。お前はあの時から何も変わってない。どこまで行ってもお前は逃げられない。』と自分自身から耳打ちされ、糾弾されているような錯覚を覚えています。
起きてる間も、夢を見ている間も、他人はおろか自分自身にすら嗤われて生きている気がします。
私は『死ぬ=無になる』と考えています。
人の本質的な部分である『意識』を完全に抹消してしまうことで、これまでの蟠りを全て払拭できるような、それが唯一の贖罪であり、救済措置であるかのように感じてしまうことがあります。
私が私自身をより良くしようと信じてきたものは、全て私のエゴに過ぎなかったようです。
変えられない過去に思いを巡らし、逡巡を繰り返してばかりの未熟な私に喝を入れてください。
お願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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別の考え方として
砂の星さんのお悩みお察し申し上げます。
まずは、『死ぬ=無になる』とお考えになるのは自由ですが、そうであればとても楽なことです。どのような考え方をすることは誰にも邪魔されることはありませんし、その信念を貫き通せばいいのですから、何も悩むことはないでしょうね。
しかし、そうでなく、死んでも無にならなかったらという考えもあっていいと思います。そのスタンスで今のお悩みを考えてみてはどうでしょうか。
>『もう取り返しのつかない事だろ。お前はあの時から何も変わってない。どこまで行ってもお前は逃げられない。』
ならば、変わっていないのは何かと考え修正すればいいのではないでしょうか。
たしかに過去のことは変えることはできませんが、未来を創造することはできます。
生きるということは様々な事を体験もしますが、修正することも同時に行うことのできるはずです。
死ぬことで何も無くなるなら(意識も含め)やりたいことをやりたい放題すればいいですし、このような悩みからも解放されるから楽です。でもそうでなかったら・・ゆえに努力するのではないと思います。
もちろん考え方は自由です。ただ私は無にならないと考える一人としての言葉です。
質問者からのお礼
鈴木 海祥 様
>死ぬことで何も無くなるなら(意識も含め)やりたいことをやりたい放題すればいいですし、このような悩みからも解放されるから楽です。でもそうでなかったら・・ゆえに努力するのではないと思います。
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本当にその通りですね。
『死ぬことで無になれる』と口走っていながら、結局死ぬ事に対して強い恐怖を抱いている。癇癪起こして駄々をこねている子供のようで、何とも情けない話です。
どうせ潔く死ねるだけの度量もないのだから、生き恥を晒していくしかないのだなと思います。
昔も今もこれからも、私は多かれ少なかれ恥を重ね塗りしていく運命なのかもしれません。もしかしたら、より醜く腐っていき、清らかな存在として幕を閉じることができないかもしれません。
しかし、誰かを巻き添えにして苦しませたまま、自分はいけしゃあしゃあと逃げるような最期だけは絶対に迎えたくないと考える次第です。
回答ありがとうございました。