特殊性癖、および、同性愛に傾注することは「逃げ」か?
私は、少なくとも幼少期には同性愛者としての自覚は全くなく、むしろ同性愛というものは奇異なものであるとの認識を持っていました。そのような認識が変わったのは、私がある特殊性癖に目覚めてからです。
特殊性癖の名称は伏せますが、その性癖を持つ人々の多くは同性愛ないしは両性愛者で、異性愛者が少数派となっている特殊なコミュニティでした。その性癖に長く触れている内に私自身も同性愛者になっていました。現在までに男性と体を重ねた回数も10はくだらないと思います。
「同性愛である自分」ということに嫌悪感はありませんし、「同性愛」であることと社会とのつきあい方についても強い不満を感じてはいません。ですが、一つコンプレックスがあります。それは、「自分が同性愛者であるのは、女性と付き合うことに自信がないからではないか?」ということです。
私には彼女を作って付き合ったという経験は全くありません。もちろん性交の経験もありません。しかし女性に性的魅力を感じないわけではありません。
つまり私は、「両性に性的魅力を覚える」のに「男性ばかりと行為をしている」ことになります。この性別間の不均衡について、現在の私は次のように考えています。
1.男性の方が行為までのステップが少ないし、ハードルも低い
2.一方で女性はステップもハードルも高く、女性という生き物自体気難しいもののように思える
3.「だったらどっちもイケるんだし男でいいじゃん」
4.…と自分は考えている(無意識にせよ意識的にせよ)
そこでお訊ねしたいのですが、
・以上なような考えはそもそも自分の内面をきちんと観察できているのか。単に卑屈になっているだけではないか
・以上の考えが自己を捉えられていたとして、そのような姿勢は不誠実でないか。性欲を解消してくれるものとして男性を捉えるのは非倫理的ではないか。改めるべきではないか
・改めるべきだとして、それを理由として女性と付き合うのは余計不誠実ではないか。女性を、自分のコンプレックスである「女性経験のなさ」の解消のために利用するのは非道ではないか
以上のような悩みに対してみなさまのご意見を聞かせて頂きたく思います。
赤裸々な質問になりますが、どうかよろしくお願いします。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。
そのままで良いのではありませんか?
そのように難しく考える必要はないと思います。
特殊性癖や同性愛に傾注することは「逃げ」ではありません。
それがあなたの個性です。
御自身の気持ちに素直になってください。
順番が逆ですね
仏教は平等の精神です。
それは男と女も同じ。
覚りに至れば男も女も無いのです。
大切なのは心ですから。
性交の為に付き合うのは順番が逆です。
付き合ってから、一緒に生きていこうとお互いに思ってから、性交してください。
その相手が男でも女でも構いません。
ご質問に合う回答では無いですが、スタートから間違っていると思い、この様な回答をさせて貰いました。
質問者からのお礼
お返事が遅くなって申し訳ありません。
性交のために付き合うというのは順序が逆とnご指摘、まさしくその通りだと思います。
そもそも人と付き合った経験や、性に対する経験を、を社会的なステータスとして認識していたのが間違っていたように思います。そんなふうに捉えるから、「社会的ステータス」を得るために交際を始める、という発想が出たのだと思います。
世間には、童貞やらコミュ障やら、異性との経験の少ないことを根拠として人を馬鹿にする風潮があるように思います。ですが今回お二人にお応えいただきまして、そういう自分を無用に惑わすような風潮に流される必要はないのだと確信するに至りました。
自分の心の動きを素直に受け入れ、その良し悪しも自分の心で判断するようにしていこうと思います。それが自分の個性に忠実になるということだと思います。
好きなことを好きと主張できる人間として生きていきたいものです。