神仏にお願い事はしてよいのでしょうか?
いつもお世話になります。
現在、私の家には仏壇はありません。実家にあります。毎年県内の一宮に行きお参りをして家の簡易(棚に白い布を敷く。)神棚に御札とお米、塩、お水、お酒、人工的榊を供え毎朝、手を合わせています。その時にお礼の言葉と個人的なお願い事をしているのですが神様や仏様に個人的なお願い事をしてはいけないのでしょうか?もししても良いのならそのお願い事が叶ったという事例はあるのでしょうか?教えて頂ければ幸いです。
軟弱な質問で済みません。
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仏教の視点から
こんにちは。
何か「お願い事」があるのでしょう。
そこには何らかの切実な事情があるのだと推察します。
ただ、「神仏」と一括にすることは困難です。
仏教でも、仏様を守護する神はおられるのですが、ご質問の場合は明らかに神道の神様のようで違う宗教です。
神道のことはよく存じませんが、仏教の視点から感想を述べます。
「願い事」をするのは、人間の心が動いて「願い」を発します。
その心は、殆どの場合煩悩です。
自らの思い通りにしたいという事によって、身を煩わし心を悩ましていく元になるのが、煩悩であり、心です。自らの心によって、自らを焦がす、そう考えます。
そういう教えが仏教なので、その「願い事」自体はどういう内容で、どういう心を元にしたものか、それを一度お考えいただいた上で判断してください。
仏教的視点からは以上です。
もともと、、、
ご質問ありがとうございます。
人の願いや祈りを受け止める役割が神仏含めた宗教だと思ってます。
そういえば思い出しました。
聖徳太子や聖武天皇が仏教をよりどころにしたのは、煩悩からではなかったはずです。
うちの寺を開いたとされるお坊さんは、奈良時代に当時の帝に呼ばれて病気平癒の祈祷をしていたそうです。
当時も感染症がすごく流行っていたようですが、ウイルスや病原に対する研究も進んでおらず、祈り願うことで二次的な情緒不安や社会不安の軽減を図っていました。
当時の帝としては、病気が治らないと自分の生活に不利益を被るから何とかしたいという理由だけではなく、人々の健康と平和を願う理由もあったと私は思います。
ですから、単に煩悩だけが、理由とは限らないです。
ちなみに、成果を考える場合、私は自分で成就の幅を狭く決めつける必要がないと思う立場です。
100点満点の評価でないにしろ、65点から70点くらいも願成就の範疇として、そこから更なる成功の確率を高めてもいいんじゃないかと思っています。
(執着からの解放も願いが叶う(願成就)への道だと思います)
得体の知れない人の健康を脅かす存在にただ無力感を感じるだけだと光は射しませんが、願い祈ることは困難を乗り越える道をつくるはたらきがあります。
当時の願いがあったおかげで、今のうちの寺がつくられました。その恩恵を私は受けています。
1人じゃ心許ないなら、私も、うちの本尊もいっしょに願いますね。
質問者からのお礼
釋 悠水様
早速のご回答どうもありがとうございます。
煩悩なのですね。
泰庵様
ご回答どうもありがとうございます。
神仏に手を合わせる事で逆に現実を受け止めやすくなると思いました。現実に行動するのは私ですがどの様な結果になっても出来る事はやったのだからと最終的に後悔が残らないのではないかと思いました。