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孤独で心が押し潰されそうです。

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初めて質問します。

私は今年の4月から大学生になり、一人暮らしをしています。地元から遠く離れた場所で簡単に帰ることは出来ません。未だにほとんどの授業がオンラインで行われていて、人との関わりもほとんどなく不安で仕方がないです。自分自身、何故こんなに孤独感に苛まれているのかわからず、今目の前の事をこなしていく他ないとわかっているのに突然、孤独感なのか、焦燥感なのかわからない気持ちが出てきます。何かをしている途中にもこの気持ちが出てきて手がつかない事があります。本当に辛いです。この状況は時代柄仕方がないことで変えることは出来ないですが、自分の心の持ちようは変えれると思ったので質問させて頂きました。

よろしくお願いします。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

その孤独の最高最上のクオリティを追求すれば涅槃寂静です。

こんにちは。
私は大学時代の3年4年の時、こたつといいちことポットと天下一品とギターがお友達でした。孤独も孤独。
寂しいという心理は確かな心情なのかもしれませんが、いいえ。
逆に徹底的に孤独を極める道が人間の真の修行です。
それは集団の中にあっても徹底した個人、個になりきって、個も箇も弧も固も打破し尽くすこと。
俺がオレガの個人の個も要らん。
絶対的な存在とはいえその箇も絵空事の箇を描いているうちは真実の箇ではない。
孤独の弧は幻想。真実の孤独は暖かで優しく、心地よい静寂。失って何かが損ねられるようなもの、減るようなものを持っているから、それを失いたくないから寂しさを覚えるだけ。
ああだのこうだのとかっこいい理屈をごねる頭の固い固も固執も打破しつくす。
その為には徹底的に自分の作用、器官の働きに「おれ・わたし・自分」というむさくるしいエゴを伴わせない・交えないことです。
埼玉では今雨が降っています。私のいるところではたまたまクイーンの曲が流れています。時に雨音が聞こえ時にフレディ・マーキュリーの声、ピアノが響きます。そして私が打つPCの文字入力の音、感覚、座っているイスの感覚、今日は頭の手術をしたので痛み、体の感覚がある。それら一切があっても、そこに俺とか私というべたべたする俺意識が伴わない状態があるのです。
それこそが真実の孤独の極みの最高峰、もともと、涅槃寂静なる心境です。
者を聞く、見る、感知する際に、そこに後からあれこれ考える自分流の思考や見解が伴わない様子。あなたも孤独だ孤独だといっても、それは違うのです。自分で思ったこと、描いたことが優先されているだけのことです。本当に孤独が人を苦しめる、生物を苦しめるならあらゆる人間は一人の存在ですから、今晩もどこかで若者が孤独死をしているはずでしょう。それはあり得ません。本当に徹底して孤独の極みを観察しつくしてみるとそれは孤独ではなくて、人間の見解以前の大静寂世界。
勇気をもってそこを見つめてみることです。
俺、私、自分というおしゃべりな突込みマシンの一声が介入される前の大寂静、大静寂がある。
そこを本当に感じてみると、この身と物事とのささやかな会話対話=ふれあい=生起・縁起が行われているだけ。この身がそれと触れて寄りて起こる。
音も映像も香りも味も感覚も。
それが孤独をも吹き飛ばし、自己を安心に導く人間の真実です。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

質問者からのお礼

ありがとうございます。

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