人間不信になってしまいました
私は小さい頃からおとなしく、いじめられる対象になりやすい子供でした。一方、自分に自信がない分、「あの子はこんなことが上手ですごいな」と、他人の良いところを見つけるのが得意だったので「もっと上手に人付き合いできるようになりたいな」と考えていました。
しかし大人になり、上司からのパワハラセクハラをはじめ、意地悪な先輩、親のヒステリー(親元を離れてから異常だと気付きました。)など、正直尊敬できない大人が多く、私の得意だった「他人の良いところを見つける」ことが出来なくなってしまいました。
むしろ、歳を重ねても常識のない自己中心的な大人の多さに幻滅し、この先長い人生をそんな人達に囲まれて生きていくことが嫌になってしまいました。
誰だって完璧な人間ではないこと、人には色んな面があること、そして広い世の中にマトモな人がたくさん居るのは分かっています。しかし、環境を変えたり、人への接し方を変えたり、自分自身を変えても、やはり常識の通じないおかしな大人は絶対に存在します。それが辛いです。
最近は、政治家の誠意ない言動や、コロナ禍に自己中心的な行動をする人々を見てますます絶望しています。私は選挙に行っています。でも結局その他大勢のおかしな人達にはかなわないのです。将来こんな世の中に子供を産んでいいのか、と言う悩みも抱えています。
人や自分を信じて前向きに生きたい。でもそれが出来ないほど、人の悪意に傷つく日々の連続で、嫌になってしまいました。
回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
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主の話に学ぶところ大
こんにちは。
高校時代に読んだ古典(出典は覚えていません)に、こんなお話がありました。
あるところに住む一家の主が、知人を招いてひと時を過ごしていました。
しかし、その中で何が逆鱗に触れたのかは分かりませんが、知人は突然その主に打擲(ちょうちゃく)を加えるという、無法を働きました。多くの人はここで、血相を変えてすぐに反撃に出るでしょうが、その主は違いました。
まず、居住まいを正します。
そして、おもむろに言いました。
「私は、この扱いを不当だと思う。しかし、あなたにはあなたの言い分があるだろう。それを先ず聞かせてもらおう。そこから次を考える」と。この主の人徳の高さよ、という内容のお話でした。
この主の素晴らしいところは、自分の見方、ものさしをどれだけ悔しくても腹が立っても、一旦は収めて相手の言い分を聞くという懐の深さです。また、それは自分の意見を、一歩引き下がって相対化するという謙虚さ、知的誠実さを尽くそうとする言動が素晴らしいと思うのです。
確かに一方の側の「常識」から考えれば、「誠意ない言動」「コロナ禍に自己中心的な行動」と見えるかもしれません。それは事実そうかもしれないし、相手の言い分を知らない、聞かないがゆえの事実のズレがあるかもしれません。
それぞれの立場があり、たまたま心が緩んだ「言動」だったかもしれない。周りが見えなくてやってしまった(これは私にもあります)ことが、「自己中心的な行動」とニュースに取り上げられたのかもしれない。
私は、他者からの不当であったり、理不尽を被ることを耐え忍ぶべきであるとは言っていません。「その他大勢のおかしな人達」と結論付けることは、慎重になった方が良いと言っているのです。
仏様から見れば、人間は大なり小なり、煩悩という自己中心を通そうと日々もがいている存在です。そこに多少の違いがあっても、どんぐりの背比べほどの微小なものです。
私は、この仏様からご覧になられた私を私だと思います。
そして、先の話に出てきた主の話に学ぶところ大だと思います。
あなたはいかがですか。