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恋人が物に当たったり八つ当たりをする

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有り難し有り難し 6

長文ですが、恋人についてご相談させてください。

付き合って二年程の彼がおりますが、感情の起伏が激しく、またそれをコントロール出来ません。

具体的には怒りを感じたり自分の思うようにならないと、以下のような行動をします。
1 ドアの開け閉め等、とにかく大きい音をたてる
2 その辺に物を投げつける
3 私に物を投げつける(衣類や柔らかいものだが不快です)
4 殴るまではいかないが、引っ掻いてきたり叩いてきたりする

なお彼は外ではいつも笑顔ですが、人の顔色を伺うところがあります。
その反動で甘えられる私に対して、発散の為先程のような行動をしていると考えています。
なお怒りの原因は私以外の事が多いです。
上司に腹がたった、自分で予定を立てて、その予定が何かしらで変わった等です。

本人が成長するばかりと思っているので、普段の癇癪に対してはまたかと思う程度です。直したいと思うなら、より向き合おうと思っていました。

ですが昨晩、どうしても許せない事がありました。
私が家で休んでたところ、遅い時間に彼が帰宅し、そこから同僚の愚痴が始まりました。

そうか、嫌だったんだねと話を聞いていましたが、ヒートアップしたのか今度は私の顔面を連打してきました。
叩かれながら、そのうち飽きるだろうと思い放置していましたが、ずっと叩いてくる為息苦しくなり、八つ当たりなら止めなさいと言いました。
更に機嫌が悪くなり、物に当たり始め、最終的に物を投げたせいで私物を壊されました。(友人からプレゼントで頂いた物です)

さすがに友人から頂いた物が壊れてるのを見た時は悲しくなり、彼のいない所でがっくりしました。
その後彼は謝りもせず、壊した私物を勝手に捨てました。
物はいつか壊れるからと自分に言い聞かせ、壊れた物自体に対しては気持ちの処理はしました。ですが、壊した挙げ句勝手に捨てるのは有り得ないと思います。

彼が癇癪を直したいなら長い目で向き合うつもりでしたが、昨晩の出来事でもう無理だと痛感しました。
結局彼の中では私を見下し、場面で甘えられればそれで良かっただけなんだろうと思います。
遅かれ早かれ別れると決めましたが、こんな私に何かお言葉を頂けないでしょうか。


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お坊さんからの回答 1件

回答は各僧侶の個人的な意見で、仏教教義や宗派見解と異なることがあります。
多くの回答からあなたの人生を探してみてください。

傷つけ合い、汚し合いのない、お互いがより良くなる「運ばれ」。

あなたがこの世に存在しているのはまず前提が無条件。
「何かをやらなければならない」ということに縛られるべきでは「ない」と思います。
だから、その彼氏さんを「あたしがなんとかしてあげなきゃ」ということにも縛られてはいけません。
自由の中の自由。
究極の自由は自分ルール・マイルール呪縛からの解放です。
さらなる自由は向かうところが無くなること。
あれをしなければいけない、これをしなければならないということがなくなるとよいのでしょう。
男運、人間運、仕事運。それは他人との縁の運び。
ですが、
思考の運び、言葉の運び、行動の運びは「運」は運でもそこに自分の意志を含めることができる。
冒頭に申し上げましたように、人間にはこれをやらなきゃいけないということがない。
そこにさらには自分のこうしたいという真実の息吹としての意志を添えてみることですよ。
先ほど庭で蚊に刺されながら掃除をしていたら、カマキリが上から降ってきまして、私の胸のあたりにしがみつきました。
たまたまですが、二日前もカマキリを見つけて子供たちに見せようと虫かごに入れておきました。すぐ逃がしましたが。
掴まえるときに私の首のあたり、耳のあたり、頭を歩いて耳のあたりを通るときにぞわぞわしました。
ですが、私は十数年前だったら大騒ぎしたかもしれませんが、あなたが彼氏に八つ当たりだったらやめなさいといったように、私の事にはならなかったのです。
勝手にカマキリがそれをしただけ。
こちら側が相手の行動の過激な一挙手一投足を見ているには見ている、きいているにはきいているのですが、こちらの「自分・わたし・我」が動かないのです。良い意味で。
人と人。
人とモノ。
人と虫。
人と「事」との出会い・遭遇・縁・はこび。
すべて予測不可能でトリッキーではありますが、それでも人間、この自分自身はいつでも・どこでも・どんな状況下でも真実の喜びに向けて何をやっても良いのです。
つまり、あなたはもとから自由で誰からも解放された状態なのですからどう行動してもいいのです。ただし、別れるなら上手に刺激しないようにあと腐れないように別れることです。
私はカマキリをつぶさぬよう、そっと払いました。
彼は彼の意志でどこかへ行きました。
私は掃除を続けていました。
そんでもって、今、また縁の運び、事の善導=「運ばせ」をしております。
良い方向へ運ばれますよう。

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有り難し
おきもち

お悩み相談08020659278
今月の法話 文殊の剣 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞(本文より) 「大丈夫、慧の剣を取る。」 大いなる菩薩や老師は智慧の剣を取って、人の迷いの見解を断ち切り真実の姿をみせてくださいます。 智慧の剣とは人間の自我、我見の無いこころからなる、無垢で清らかなる「事実の様子」「本来の様相」を見極める力ともいえましょう。 それこそが智慧の剣なのです。 文殊とは自己を鎮め得た者の姿。 人間の内なる思慮分別の猛獣を修め得て、その上に鎮座する姿。 事実を事実のとおりに見るということは、余分なものがないということです。 そこに現れる余分な見解というものを断ち切った姿。 そもそも、もともと一切の事象、事実というものには余分なものはありません。 とは言えども、それでも人は人の習癖・習慣的に物事に思いをつけたす。 いまや「写真で一言」という要らぬ添え物をするバラエティ文化もあるぐらいですから、ものを本当にそのままに受け取るということをしない。 文殊様の持つ剣、智慧の剣というものは、そういう人間の考えを断ち切る働きを象徴したものです。 その文殊の剣とはなにか? お見せしましょう。 いま、そこで、みているもの、きこえていること。 たとえ文字文言を観るにしても、そのものとして映し出されているという姿がありましょう。 文字として見えているだけで意味を持たせてもいない、読み取ってもいないままの、ただの文字の羅列のような景色としてみている時には、文字であっても意味が生じません。 本当にみるということはそこに安住しています。他方に向かわない。蛇足ごとが起こらない。 見届けるという言葉の方が適しているかもしれませんね。 ❝己がそのものを観ていながらそこに余計な色や思いをつけたさぬその己の様子を「こそ」見届けてみてください。❞それはものの方を見るというよりはそれを見ている己を見つめる姿ともいえましょう。 そういうご自身のハタラキ・功徳に気づく眼を持つことです。 あなたの手にはすでに文殊の剣がありますよ。用いることがないのはもったいないことですね。

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